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2007年07月01日

学校ってどうなってるの?11~今、学校で何が起きているのか 1「なぜ教員は忙しいのか?」~◆削られる「生徒と向き合う時間」◆

日経BPネットにかつて、リクルートから教育界に転身し民間人校長となった杉並区和田中学校の校長である藤原和博氏に今の学校の状況を聞いた記事が掲載されていました。2006年の記事です。学校の様子を伺える内容なので転載します。

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杉並区立和田中学校校長 藤原 和博氏

日経BP記事
今学校で何が起こっているのか?「なぜ教員は忙しいのか?」1
今学校で何が起こっているのか?「なぜ教員は忙しいのか?」2
今学校で何が起こっているのか?「なぜ教員は忙しいのか?」3

★なぜ、教師は忙しいのか?★

地域社会と家庭の変化(過保護・自己中化)、それに巻き込まれる学校の関係が記載されています。

1】家庭はなぜ機能不全になったか?
・小子化のために子供への過保護期待が高まった
・社会人になりきれない親

2】なぜ。地域社会が機能不全になったか?
・「地域」=町会や商店会にあった子供を大人に育成するための機能が、都市部で弱体化してしまった。

3】学校はどうなった?
・結局「学校」が、最後の砦(とりで)になった。“3人”で分担していた子育ての仕事を、“1人”でやらなければならなくなったのだ。
・日本の教育行政は、レッテル付きの「追加教育」をたいした予算もつけず、教員を増やすこともなく現場に下ろし続けてきた。場当たり的な追加教育がもたらす膨大な机仕事。「環境教育」と「IT教育」と「福祉ボランティア教育」と「国際理解教育」と「こころの教育」と「いのちの教育」と「キャリア教育」さらに、「特別支援教育」が始まり、全体の6%以上と言われる軽度の障害のある子との本格的な融合教育・・・・それでも、増員なし。

4】学校に必要なのは?
・人数が増えない前提ならば、もう一度教員が子ども達に寄り添う時間が増えるように、余計な仕事を大幅に削減するためのシステム上の大改革が必要なのである。
と提言しています。

藤原氏のHP『よのなかネット』もあわせて紹介します。

※上記記事の詳細は、続きで記載してあります。

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日経BP記事
今学校で何が起こっているのか?「なぜ教員は忙しいのか?」1
今学校で何が起こっているのか?「なぜ教員は忙しいのか?」2
今学校で何が起こっているのか?「なぜ教員は忙しいのか?」3

より

 教育基本法の改正、学校でのいじめ問題、必修科目の未履修など教育に関わる課題や問題が連日のように報道されている。だが、その割には、教育現場で何が起きているのかがなかなか伝わってこない。そこで今回から短期集中連載として4回シリーズで学校の現場で何が起きているのかを、杉並区立和田中学校の藤原和博校長に寄稿していただいた。藤原校長は、リクルートの初代フェローから教育界に転身し、2003年、都内では義務教育初の民間人校長となった。

 4回シリーズの最初は、まず「教員」という仕事の変質について述べることにしよう。教員集団によって構成される「学校」の役割の変質と言い換えてもよい。

 本来、子どもは「家庭」「地域社会」「学校」が三位一体で育てるものだ。

 家庭という社会、地域社会、学校という社会の3つの「社会」の中で子ども達はもまれ、社会化され、大人になることができる。ところが、「家庭」と「地域社会」は、その社会化機能を大幅に低下させることになった。

 学校は、子どもを大人にするための社会化機能を担っていた他の2つの主体-「家庭」と「地域社会」-がともに機能不全を起こす中、本来それらが果たすべき役割をも抱え込まざるを得なくなったために、急速に機能低下した。

 今日の学校がとかく批判されがちなのは、学校自身の内部要因よりむしろ、外部要因である「家庭」と「地域社会」とが変質していく中で、その波をまともにかぶったという意味合いが強いのだ。

◆なぜ家庭と地域社会が機能不全になったのか?

 まず「家庭」を見てみよう。

 家庭では、少子化と核家族化が同時に起こったことで、子どもは希少価値のある存在になり、子どものまま扱われる(多くは可愛がられる)期間が延びた。

 兄弟姉妹が多ければ競争も交渉も葛藤もあり、もまれる可能性が高いが、1人や2人の子では難しい。農業社会や戦時中の社会では、子どもは早く一人前になり、働き手として、あるいは軍人として、大人になって貢献してほしいというのが親を含めた、大人の本音だった。ところが、豊かで平和な社会では子どもを大人にするための教育が行われにくくなる。放っておけば子どもは子どものまま、カラダだけ大人になってしまえる。

 「お腹へってない?」と子どもを気遣い、おやつをレンジでチンする優しいママさん達には、それが子どもの社会化、つまり自分の子どもが大人になることを阻害しているという意識はないだろうけれど。

 いっぽう、学校と家庭の間にあるはずの「地域社会」も機能不全に陥って久しい。「地域」と言った場合、町会や商店会のことを指す。その両者がほとんどの都市部で弱体化してしまった。

 マンションの林立や転勤族の増加で町会は組織率が下がり、町会長の高齢化も相まって、衰退傾向にある。また、コンビニや大型のショッピングモールの影響で商店街はそこここで壊滅状態だ。だから、子ども達が学校から家に帰る途中に寄る居場所がない。昔ならいた、けっこう危ない遊びを教えてくれる近所のお兄ちゃんや、やたら面倒見のいいお姉ちゃん、魚屋のオジさんや、駄菓子屋のオバちゃんもいない。イタズラしては怒られた空き地の横に住むおじいさんとも、いつも縁側でお茶を飲んでは子ども達の野球プレイをいちいち褒めてくれたおばあちゃんとも出会えない。

 子ども達が学校帰りに出会うのは、コンビニ、ファストフード、マンガやビデオのレンタルショップ、そして100均ショップの店員だけ。ショップのお兄ちゃん、お姉ちゃん達は、子ども達を「お客さん」として大事にしてくれることはあっても、人間として付き合い、もんでくれることはない。

 こうして「地域社会」も、子どもを大人にするための社会化装置としての役割から降りてしまった。

 結局「学校」が、最後の砦(とりで)になった。“3人”で分担していた子育ての仕事を、“1人”でやらなければならなくなったのだ。

 ところが、今も昔も公立校の教員の人数は全国70万人と変わっていない。だとすると、子どもに対する保護者の期待が変わらないとすれば、学校は子どもの社会化について、3倍の仕事を抱え込むことになったともいえる。

◆親は「社会化」したのだろうか?

 小中学生の保護者の大半も十分に社会化されずに大人になった。「自分の気持ち至上主義」で生きてきた世代だという指摘もある。だから「自分の子だけはよく面倒を見てほしい」という学校に対する期待が限りなく高くなる。教員を始めからなめてかかるクレーマーも増えてきた。

 「保護者の期待が変わらないとすれば」と上に書いたが、じつは、保護者の期待が変わらないわけはない。子どもが減れば、期待は当然、高まるのだ。

 ときに教員が漏らす「子ども達の背後にいるのは親ではなくて子どもっぽい大人だから、子どもが2人いるようなものなんですよ」という悲鳴にも似た感想にもうなずけるものがある。

 子どもの社会化を引き受けることをせず、基礎学力の定着や生きるチカラの養成を含めて、学校に丸投げ気分の親も多い。だから、いきおい学校の負担は大きくなる。責任感の強い教員ほどまいってくる。教頭のじつに10人に1人が、過労で精神的にも厳しい状態だという報告もある。

◆場当たり的な追加教育がもたらす膨大な机仕事

教員に、余計な仕事が増えている。

 中学校の数学科で、バスケット部の顧問でもある先生が2年D組を担任していたとしよう。この先生の仕事のほぼ100%は、数学という教科を教える「教科指導」と、バスケットとクラス運営と行事を中心とした「生活指導」に費やされているのが健全な姿だ。そのほかに給食費の徴収や修学旅行の実地調査、「数学検定」など資格検定試験の手配や学内の会議など学校の事務処理(校務分掌と呼ぶ。詳しくは第3回で触れる予定)や学外の研究会への参加が発生する。理想的には、授業6割、生活指導2割、事務と研究で2割ずつというところだろうか。

 しかし、日本の教育行政は、レッテル付きの「追加教育」をたいした予算もつけず、教員を増やすこともなく現場に下ろし続けてきた。

 環境問題が大事だと言えば「環境教育」を充実せよという指示が上から降りてくる。IT化に乗り遅れるなという社会的な要請が高まれば「IT教育」が追加される。昨今の若者には思いやりが足りないじゃないかという指摘があると「福祉ボランティア教育」がメニューに加わる。国際化時代と言えば英語が小学校の授業にも下りてきて「国際理解教育」が叫ばれる。少年事件が起これば「こころの教育」が、小学生がウサギを死なせたと言えば「いのちの教育」が、ニートが増えたと言っては「キャリア教育」が、経済感覚やベンチャースピリットが不足しているという指摘があれば「起業家教育」や「金銭教育」が降ってくる。

 日本の教育現場で、いったい何人の教員が、数学を教え、バスケット部の指導をし、2年D組を担任したままで、「環境教育」と「IT教育」と「福祉ボランティア教育」と「国際理解教育」と「こころの教育」と「いのちの教育」と「キャリア教育」・・・を教えられるだろうか。追加教育が、授業にかかわる教務だけでなく、関連の事務作業量をも増やすことは自明だろう。

 2007年からは「特別支援教育」が始まり、全体の6%以上と言われる軽度の障害のある子との本格的な融合教育も始まる。例によって、追加の人員配置はない。

 教員の仕事は本来、生徒に向かってなされるべきである。目の前の児童・生徒が、できないことをできるように、分からないことを分かるようにすること。豊かな世界観を育み、柔らかな人生観が持てるよう指導すること。そのことに全力を尽くしてほしいのが、教員に対する親の願いであるはずだ。

 教員が余計なことで忙しくなり子ども達に向き合う時間が減れば、集団生活では自然に起きるイジメやちょっとした事件に対して、それを発見し、適切に処置することに隙ができても不思議はないだろう。

 人数が増えない前提ならば、もう一度教員が子ども達に寄り添う時間が増えるように、余計な仕事を大幅に削減するためのシステム上の大改革が必要なのである。

投稿者 2310 : 2007年07月01日 List   

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