勉強だけができる子にしたくない!【4】:特権階級の自家中毒~その原因は仲間からの評価非充足か! |
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2011年07月14日
勉強だけができる子にしたくない!【5】:旧観念への固執による、みんなとの意識のズレ
勉強だけができる子にしたくない!シリーズの6回目です。
写真はこちらからお借りしました。
これまでのシリーズです。
勉強だけができる子にしたくない!【0】:プロローグ~試験制度は子供達を無能にする
勉強だけができる子にしたくない!【1】:こんなにも進んでいる試験エリートの無能化
勉強だけができる子にしたくない!【2】:地震を契機に人々の意識はどう変わるか?
勉強だけができる子にしたくない!【3】:学者がウソをつく~専門家では社会の役に立たない
勉強だけができる子にしたくない!【4】:特権階級の自家中毒~その原因は仲間からの評価非充足か!
これまで、主には試験制度の問題点と試験制度の中で生み出された試験エリート、そして試験エリートが上り詰めた先の特権階級にスポットを当てて来ました。彼らは、本当の目的意識を持ち合わせず、試験制度という限られた枠組の中で、より良い点数、より良い成績、より良い志望校という狭い目標しか見ずにがんばってきました。そして最終的に社会統合という特権を手に入れると、(本来はみんなのためにどうする?という目的意識が働くはずのところが)より高い地位、より大きい権力を手に入れること、すなわち自らの権力の維持と行使を目的意識とし、社会を閉塞させてきました。その原因のひとつが彼らを育て上げてきた試験制度の問題点ですが、今回は、もう一つ「旧観念」という考え方に焦点を当てたいと思います。
まずは、こちらのるいネットの投稿を。
「素人の創造」は旧観念を基盤にした私権制度の壁を突き抜ける制度設計提案の段階に入った
山澤貴志 ( 44 ITコンサル ) 09/12/16 AM03 【印刷用へ】「素人の創造」を標榜するるいネットでは「社会統合階級の欺瞞性」や「学者・官僚・マスコミが答えを出せないのは何故か」は過去から一貫したテーマとして扱われてきました。以下の01年の投稿もその一つです。
>かつて、自由・個人・権利etcの観念を中核とする近代思想は、輝きを放っていました。しかし、その近代思想も、’60年代を通じて急速に色褪せてゆき、貧困がほぼ消滅した’70年をもって生命力を絶たれ、輝きを失って終います。・・・ところが、大学(人文系)やマスコミは、既に生命力を失い、形骸化したそれらの観念に未だにしがみついています。実際、彼らは百年も前から同じ言葉を繰り返しているだけで、本質的には何の進歩もみられません。これでは、当面する社会の閉塞や危機に対応できる訳がありません。 968
当時は、「学者やマスコミや官僚が答えを出せないのは、(自由・個人・権利等の旧)観念にしがみついているから」→「それは彼らが、旧観念を売り物にして現代の神官としての特権的な身分を手に入れた特権階級だから」という「旧観念の弊害」という視点で分析しました。さらにそもそも現実を対象化していない架空観念である近代思想は社会を統合する認識足り得ない、という認識論まで遡って検討しています。
しかし、思想の形骸化は更に進み、もはや「旧観念」の力は衰弱する一方なのに、社会統合階級の無能化と暴走はますます加速する一方です。(とりわけマスコミの発信内容はどんどん空虚化していっているのに、マスコミの暴走は止まらない・・・)これは何故なのでしょうか?
架空観念、欺瞞観念といえども、それが思想基盤となって現実の社会‘制度’が構築されてしまうと、社会には大きな歪が生まれてしまいます。具体的には、個人の私権追求の自由を平等に補償する仕組みとしての試験制度が社会全体に行き渡り、試験の難易度を評価軸とした学歴社会と、それを基盤とした近代的官僚制度が出来上がると、社会統合階級は「自分のことしか考えない連中」ばかりで締められるようになってしまっています。
「学者やマスコミや官僚が答えを出せない」原因の一つに旧観念の架空観念性という思想的限界があるのは確かですが、実際にはその思想が結実した試験制度こそが「統合階級の無能化と暴走」を加速している温床なのです。
先日のなんで屋劇場でも議論された通り、試験制度をはじめとする様々な「私権制度の壁」を打ち抜かない限り「秩序収束と変革期待」の綱引き状態を打開することはできません。もはや旧観念そのものは力を失った現在、私たちは新らしい制度設計とその根拠としての旧観念批判という形で、共認形成を進めていく段階に入ったのだと思います。
「旧観念」とは、主に「自由」「個人」「平等」「権利」などのいわゆる「近代思想」を指して読んでいます。より具体的には、「かつては輝きを持っていたが、今はみんなの意識からずれてしまっている観念」と言ってもいいでしょう。
たとえば、「自由」という観念は、身分制度が厳しかった時代や、労働者の立場が弱く虐げられていた時代には、非常に輝きを持っていた言葉でした。しかし、現代の日本では「自由」という言葉はそこまでの輝きを持っていません。むしろ、要求主義者が自らの要求を通すために使い、周りのみんなに迷惑をかけることも多く、輝きどころか弊害を生み出してしまっているのが現状です。また、「自由主義経済」という社会原理は、お金が全てという市場社会を生み出し、農業などみんなにとって非常に重要だが市場経済ではペイしないものが、どんどん廃れていったりしてしまいました。
また、東日本大震災などでも、行政の物資支援が遅れたという事例がありました。これは、行政には「平等」な状態でないと物資を配給できないという旧観念に基づいた考えがあったからです。
「旧観念」は今や一般の人々においては、ほとんど可能性を感じていません。そして、上記のように実際の役にも立っていません。しかし、特権階級の人々は、未だに旧観念に固執し続けています。それはなぜでしょうか。
「旧観念」は、特権階級の権力の維持や行使に対して正当性を与えてくれるからです。例えば、官僚になるためには、官僚試験に合格しないとなれません。官僚試験は誰もが平等に受験することができますが、一度それに合格してしまえば、よっぽどの失態をしない限りは官僚としての地位は安泰です。
そして何より、特権階級が拠り所にしている試験制度も、「旧観念」の伝承装置でもあります。例えば、世界史では、近代思想が実現してきた歴史を勉強し、政治経済では「旧観念」を元に作られた社会制度を勉強します。教科書に書かれている事ですから、正しいと信じてしまうし、もちろん試験で良い点数が取れるように、しっかりと身につけます。
社会の役に立つためには、みんなの期待をつかめるかどうかが重要になってきます。しかし、観念がみんなとずれてしまっているのでは、いくらがんばってもみんなの期待をつかむことは出来ません。「旧観念」に固執する限り、試験エリートは無能と言わざるを得ません。
試験勉強に変わる、新しい勉強が今、求められています。
投稿者 mkkzms : 2011年07月14日 TweetList
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