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2010年05月09日
新たな時代の教育制度の提案に向けて~ドイツの教育制度(変遷と社会的意味)~
ドイツの教育についての第2段です。
今回は、教育史です。
ドイツの公教育は18世紀のブロセインの時代にさかのぼります。
●1713 「教育令」 (ブロセイン全土に適用された最初の教育令)
●1717 「教育令」(「一般地方学事通則」)(5-12歳の児童の就学義務を規定:世界初の初等教育令)
30年戦争の影響もあり、18世紀頃のドイツは国力が落ち、国内も300もの小さな“国”に分裂していた。
やがてプロイセンが国力をつけ、現在のドイツ東部からポーランド北部領土一帯にかけて勢力を拡大した。そのプロイセンは、18世紀後半に登場したフリードリッヒ2世(Friedrich WillheimⅡ, 位1740-1780)によって「上からの近代化」を推し進めた。彼が出した「一般地方学事通則」は、世界最初の初等教育令であったが、その内容は軍事・経済的要請に基づいた、王に対する忠誠心と愛国心をもつ臣民を育成するプログラムであった。具体的には、読み・書き・算といった3R’sと、キリスト教道徳を注入・教化する人材育成が実践されていた。
イギリス・フランスに遅れをとったドイツでは、ヨーロッパで生き残るためにも、国家主導で国の近代化と富国強兵政策を急ぐ必要があった。フリードリッヒ2世は、「朕は国家の第一の僕である」と称し、啓蒙専制君主として王領地の農民を保護し、産業の育成と軍備の強化に努めた。
国内の経済発展が未熟で、ブルジョワ階級が十分に力をもっていなかったために、自ら「上からの改革」に乗り出さなければならなかった。国王が先頭に立って富国強兵のために立ち上がっているという国内向けの宣言も意図的に行われたが、富国強兵を達成するために、教育が重要な役割を担うようになったのである。
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●1850 プロセイン憲法
●1859 「実科学校及び高等市民学校の教授及び試験規定」
第一級実科学校 9年6学級 卒業試験の実施
高等市民学校 7年5学級 その合格者に対する一年志願兵の特典
第二級実科学校
●1870 公認されていた実科ギムナジウム(第一級実科学校)の卒業者に大学における数学・
自然科学,近代語の研究が許された
●1872 学校監督法、一般諸規定~ドイツ公教育制度成立~
ドイツにおける公教育制度は、武力によってドイツを統一したビスマルク(O.v. Bismarck, 1815-1898)の時代になって成立する。1872年に「学校監督法」が成立したことにより学校と教会が分離することになり、学校を教会(宗教)勢力ではなく、国家(公権力)の監督下に置くことになる。同年の「一般諸規定」により、民衆学校の制度と教育課程も整備された。
このプロイセンの民衆学校とは、初等教育の無償制の実現を意味するが、“上から”の近代化によって統一的に推し進められたこの改革は、明治期の日本に支持されモデルとされた。
●1882 「全中等学校教則」
●1886 「ドイツ統一学校連盟」
●1890 学校会議(12月)
●1892 「教則」(ラテン語削減,ドイツ語重視)
●1900学校会議(6月)
●1901 「プロセイン中等学校の授業計画と授業課題」(「中等学校教則」)
9年制の3つの中等学校が大学進学について完全な同権を承認される
●このドイツの伝統的な三分岐型の教育制度(前回記事の「基幹学校」、「実科学校」、「ギムナジウム」)は、20 世紀初頭以来しばしば批判の的となってきた。20 世紀初めの時点で、学校制度は初等教育から3つの学校類型に分かれていた。そのため、子どもたちは親の階級によって初等教育段階からそれぞれ別の学校に就学することが一般的であった。階級の異なる子どもたちが一緒に学ぶ機会はほとんどなかったのである。
●ヴァイマール共和国時代には、このような制度が階級社会を固定化する要因となっているとして、憲法制定会議などで問題とされ討議された。社会民主党は、すべての階級の子どもたちが一緒に学ぶことによって階級間の垣根を取り払えるとして、三分岐型ではなく単線型の学校制度を提唱した。
しかしこの主張はさまざまの抵抗に遭い妥協を重ねた結果、4年間だけではあるが、すべての子どもたちがともに学ぶ場として基礎学校(Grundschule)が導入された。
●第二次世界大戦後、ドイツの教育事情を視察した合衆国対独使節団は、ドイツの三分岐型の学校制度が「ドイツ社会の構成員の一部の少数グループに優越性を、大多数に劣等性をうえつけ、その結果服従と自己決定の欠如が生じ、これを利用して権威主義的支配権が打ち立てられた」として厳しく批判し、「カースト制度」とまで酷評した。その上で、この使節団の「報告書」は、このような伝統的な教育制度を廃止し、教育の機会均等を保障するために単線型統一学校制度へ切り替えるべきであると勧告していた。
だがその後、国際情勢が変化したことやドイツの反応が消極的であったため、この勧告に基づいた改革が実行されることはなかった
●1950 年代末に発表された西ドイツ中央教育審議会の計画案は複線型の教育制度を評価し、その維持を提唱していた。その根底にある考えは次のようなものであった。
能力には理論的能力、実践的能力、理論的=実践的能力の3種類があり、三分岐制度はそれぞれの能力に応じている。また、職業生活上でも、精神的に指導する層、指導される層、両者の中間に位置して一応の責任を持ちながら実践的な仕事をする層の3つに分類され、それぞれの能力に対応している。このような考え方に立って、三分岐型の教育制度は、子どもの能力の違いや将来の職業への進路に適切に対応している制度であり、したがって根本的に改革する必要は認められず、従来の三分岐型の教育制度を維持することが提唱された。それにもかかわらず、三分岐型の学校制度に対する批判は存続した。
●3つの学校類型の垣根を取り払う試みとして、社会民主党の政権下での試行期間を経て1980 年代に、総合制学校(Gesamtschule)が新たに導入された。だが、伝統的な教育制度に対する支持は依然として根強く、総合制学校は一部の州を除いて普及することなく、結果的には三分岐型の伝統的教育制度が主流を占めてきた。
●21 世紀に入るとこのような状況が変わり始めた。にわかに「学校改革」が叫ばれ、議論されるようになったのである。(2000 年のPISA(「国際学習到達度調査」)において、ドイツは、数学的リテラシーで21 位、科学的リテラシーで21 位、読解では22 位という結果に終わった。この結果はドイツに大きな衝撃をもたらした。(「ピサ・ショック」といわれる)これが契機で改革が始まる)
以上のように、階級社会を前提とした三分岐制度が批判や反対に合いながらも100年余り続き、多少の改革はあったものの今なおその原形を維持していることがその特徴。産業革命に遅れをとったドイツが国家主導で富国強兵を進め、その一環としての教育制度でもあった。
■番外編
●ドイツのエリート教育
ドイツでもイギリスと同様に紳士教育、エリート教育が展開され、都会から離れた場所で青少年が共同生活をすることで、知的教養のみならず、さまざまな能力や社会性、望ましい態度等を養成することが目指された。リーツ(1869-1919)は1898年に田園教育舎がそれである。
田園教育舎とは全寮制の学校であるが、自然環境の豊かな田園地帯に学校を建て、教科の学習だけではなくて、労作や自然の中での遊びが教育内容に取り入れられた。また子どもたちによる自治活動が重視された。特にリーツの場合には、自治活動を通じて子どもたちに自主的な性格を育てることが目標にされ、全人的な教育が考えられていた。
●これらがなぜ中等段階の教育に焦点が当てられたのか?しかも貴族や富裕層だったのか?
公教育制度が成立しても、貴族や富裕層においては、初等教育は家庭教師によって家庭で教育を行おうとする親が多かった。1800年代末に公教育制度は確立するが、まだこの時代には公教育=庶民教育という意識が強かった。特にイギリスでは、身分階級を反映した階級別の教育が色濃く残り、ドイツでもそのような意識が残っていた。貴族や富裕層の子は、小さいときは家で家庭教師により教育を受けることが一般的であった。
この学校は現在も存続しているが、現在の状況は詳しくは分かりません。また、分かり次第報告します。
■マイスター制度
ドイツの教育の特徴としてはほかに、マイスター制度がある。職人の徒弟制度ともいえる制度で、今回は詳しい内容は省略するが、手工業から発展した制度は、工業生産が発展した今直、若干の修正を加えながらも存続している。それだけ、教育制度の実学志向と合せ、職業意識の強いお国柄。
マイスター制度の詳しい内容については、以下を参照ください。
ドイツの職業制度とマイスター制度
参考:
ドイツにおける教育改革をめぐる論議と現状
新教育運動の発生
投稿者 sashow : 2010年05月09日 TweetList
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コメント
投稿者 マリー
同じ教育でも、何を目的とするかで全く違ったものになってくるのだということがよく分かりました。
教育は、まさに国家の目指すところときっては切り離せないんですね~。
これからの教育を考えていく上でも、幹になっていきそうだと思いました。