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2022年12月02日

【活力の根っこを探る】人類の活力源が同類なのはなぜ?

人類にとって最大の活力源は「同類」。リンク

しかし、「同類が活力源」という生物はほぼ存在せず(サルには見受けられる)、だとすると、そもそも
「人類が同類を活力源としているのは、なぜ?」という疑問が出てきます。

そこで今回は、人類の活力源が同類となった理由を考えてみます。

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生物史を遡ると、人類の手前はサル!

そこで、「サルたちはどうだったのか?」と考えると、彼らは同類で樹上を埋め尽くしていました。
そこでは、エサやメスの奪い合いが発生し、彼らにとっての同類は、外圧そのものでした。

同時に、サル時代には、相手の表情や気持ちを汲み取れる機能を獲得していたので、自分と同じ立場のサルを「同一視」することで、充足も得ていました

つまり、サル時代は外圧も充足も含め、
【同類がすべて】だったわけです。


明けても暮れても同類に囲まれ、同類の中だけで生きていたサル!そんな彼らですが、足の機能が退化して地上に落ちるものが出てきます。

地上に落ちたサルの大半は、トラなどの外敵に食われてしまいますが、非常に低い確率で洞窟など隠れ家にたどり着き、生き延びたサル(サル最大の特徴である樹上機能を失っているので、もはやサルとは呼べないので、「始原人類」と呼びます)が出てきます。

これが、我々人類の祖先になります。

彼らは、食べ物がないことや強力な敵に苦しんだでしょうが、最大の困難は同類がいないことだったのではないでしょうか。

先述の通り、樹上ではずっと同類に囲まれて生きてきました。極端に言えば、生まれてから同類しか知らずに生きてきた。同類がすべてだった彼らが、その同類を失ったわけです。

細々と生き延びているものの、自分のすべてだった同類がいない。

すべてを失い、もはや「自分自身」も失ったと言っても過言じゃない。

じっと座っているだけで、自分と地面と区別もつかなくなる、
もはや主体喪失の状態

上も下も右も左もない真っ暗な宇宙空間に、精神だけ放り出されたようなものではないでしょうか。

ウサギは寂しいと死ぬという話を聞いたことがありますが、これには科学的根拠はないそうです。
でも、すべてを失った始原人類は、寂しくて死んだんじゃないかと思ってしまいます。

そんな中、ものすごい偶然で、同じように樹から落ちたサルや性充足を求めてやってきたサルと出会ったら
どんな気持ちになるでしょう?

このときの始原人類の気持ちに見合う言葉、いろいろ引っ張り出しましたが、どれも軽薄でこの状況に合う言葉を持ち合わせていません。

あえて言うなら、相手がオスでもメスでも、若くても年老いていても、カッコよくても不細工でも、ホントなんでもいい!

なんでも受け入れる!という思いしか出てきません。

 

こうして同類と出会い、そして子供が生まれたときってどんな気持ちでしょう?
ずっと待ち望んでいた同類が誕生した、仲間が増えた、最大の可能性であり、希望だったでしょう。

赤ん坊は母親を頼って生きる、そして母親も赤ん坊を希望として生きる。

お互い、相手によって生かされている!いう感覚や気持ち。

それは充足であり、そして活力そのものだったのではないでしょうか。

人類の赤ん坊が、最弱状態で生まれてくるのも、ここに理由があると思います。

 

つまり、人類にとって最大の活力源は「同類」ということが前回の結論ですが、今回この記事を書きつつ感じたのは、
人類の活力源は、同類以外ありえない!
という確信です。

いま、私たちに足りないのは、「相手に生かされている」という感謝の気持ちではないでしょうか。

投稿者 kami-dai : 2022年12月02日 List   

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