学校に連れ戻す事しかできない教師たち |
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2020年01月08日
親は30人、シェアハウスで育てられた25歳男性の現在──「沈没家族」と呼ばれて
親がたくさん居るっていう状況は思った以上に充足がありそうです。
翻って、子育てを母親1人に押し付ける状況はますます可能性が見えてきません。
https://dot.asahi.com/dot/2019062700100.html?page=1 より引用します。
3歳の男の子の母である平本沙織さん(34)がスマホを取り出し、「保育園のお迎えに一緒に行ける人いませんか? 19時に帰宅予定」とグループLINEで呼びかけた。すると、すぐに「わたしが行くよ」と返事が戻ってきた。帰宅時には夕飯が待っているときもある。
このグループは0歳児から60代までの約60人で構成されていて、渋谷の複合ビルで共同生活をしている。グループのメンバーは、自分たちのことを「拡張家族」と名づけている。
平本さんは、この家に週に3日ほど出入りする「コミュニティーメンバー」だが、昨年の12月までは住民だった。今でも拡張家族の家と、大崎にある夫と住む家を行ったり来たりの生活をおくる。子どもの世話ができる時間帯に夫が帰宅するのであれば、大崎に帰宅し、そうでなければ拡張家族の家に帰る。2拠点生活について、「家族以外に育児を一緒にしてくれる人がいる安心感がある。どちらの家にも仕事道具や着替えなどを置けて、身一つで移動できて便利」(平本さん)と話す。
子どもができて平本さんの生活は一転した。親や親戚を頼ることができない都会での子育てで、以前のように夢中で仕事をすることも、友人と遊びに行くこともできなくなった。夫は仕事が忙しく、一人の育児に限界を感じていたとき、拡張家族の存在を知った。
入居したのは2017年秋。拡張家族の家には、共有のキッチンやリビングの他に、19の部屋がある。家賃は一番安い部屋で月に約16万円。決して安い金額ではない。そのため、複数人で家賃を分担する人が多い。平本さんは40平米の部屋を大人4人と、2人の子どもでシェアしていた。
「息子はいつも、『今日はいるかな?』と遊んでくれそうな人の部屋の前をうろうろしています。子育ては大変なことだけじゃありません。感動や楽しみもあります。だから拡張家族との共同子育ては、大変なことを押しつけているのではなく、みんなで貴重な経験を“分かち合おう”という思いです」(同)
親子という関係にこだわらず、「みんな」で子育てをする拡張家族の人たち。「ワンオペ育児」「保活」という言葉が一般化するほど、現代の子育て環境が厳しくなるなかで、このような子育てに興味を持つ親も多いだろう。一方で、日本では「子育ては両親が責任をもってするもの」という価値観は今でも根強い。では、子どもは本当に「親」によってだけ育てられるべきなのか。そして、シェアハウスでたくさんの「親」から育てられた子どもは、将来、どのように感じるのだろうか。
今年、25歳になった加納土(つち)さんは、約30人の大人に育てられた経験をもつ。
土さんが共同子育ての環境に置かれたのは、母親の穂子(ほこ)さんがきっかけだった。穂子さんは当時23歳で、シングルマザーで1歳の息子をどのように育てるか悩んでいた。そこで思いついたのは、子育てを一人で背負い込むのではなく、一緒に育ててくれる大人を探すことだった。近所にまいたビラには、このように書いた。
<私は、土に会いたいから土を産んだのです。ハウスに閉じこもってファミリーを想い、他者との交流のない生活でコドモを(自分も)見失うのはまっぴらゴメンです。共同保育の共同って一体なんだろう。それはどこまで可能なんだろう。コドモとオトナ、女と男、母親に対する社会のまなざし、などなどこえて付き合うことで考えさせられることがいろいろあります。平日PM17:30~22:00くらいまで保育に入れる人いませんか>
反応は予想以上だった。独身男性、幼い子がいる母親など10人ほどが集まったのだ。穂子さんは夜間に写真の専門学校に通い、昼は仕事の日々。子どもの面倒を見られないとき、保育人たちが親子の住むアパートで共同保育をしていた。
土さんが2歳半になると、数組の母子と若者で、一戸建ての5LDKアパートに引っ越し、シェアハウスのような共同生活を始めた。各部屋に3組の母子、独身男性たちがそれぞれ住み、育児や家事を分担して暮らし、土さんはここで9歳まで過ごした。
「リビングにいくといつも誰かがいて、本を読んで大好きな電車で遊んでもらいました。毎日いろんな人が出入りしていて、朝起きると知らない大人がリビングで雑魚寝していたこともありました。ワイワイとにぎやかな場所でした」(土さん)
共同子育ての家は、穂子さんが「沈没家族」と名づけた。夜のニュース番組である政治家が「男女共同参画が進むと日本が沈没する」と発言。それを聞いて怒った穂子さんが、「そんなことくらいで沈没するような国なら、沈没してしまえ!」と、自分たちの共同生活を皮肉ってこの名前にした。
実際の暮らしは、どのようなものだったのか。土さんは、こう話す。
「保育してくれたのは若い男性が多く、僕や他の子どもたちの様子を、保育ノートに記録していました。『夕方、土と二人で神田川でつれしょん。その後、散歩。夕陽がきれいでした』『三輪車にのるのが上手になっていておどろいた』『土と一緒に走るのが好きだ』『土とはまだ仲良くできないので、今日は土と交流できるようになりたい』など保育ノートの中には、自分の知らない自分がいて驚くと同時に、たくさんの人にかわいがってもらっていたんだなと胸が温かくなります」
土さんがこの暮らしが「ふつうではない」と感じたのは、9歳の時に母の思いつきで「沈没家族」を離れ、八丈島に引っ越してからだ。「沈没家族」で暮らしていた時期は、保育園の運動会に大人が団体で応援に来た。ちょっと他の子とは違う風景だったが、「うちは人が多くて楽しいなと思っていた」ぐらいだったという。
「母が忙しくていなくても、誰かがそばにいてくれました。母に叱られることがあっても、他の人に慰めてもらうことができました。たぶん9歳の僕にとっては、沈没家族が『家族』でした。だから、9歳で八丈島に引っ越して、母と二人きりの生活が始まったとき、沈没家族が恋しくてしばらく泣いて過ごしていました」(土さん)
土さんが20歳になったとき、沈没家族の仲間が集まって祝ってくれた。
「土はカボチャが嫌いで困った」「パンツをはくのが嫌いだった」など、大人の口から語られる自分に戸惑いながらも、大学の卒業制作に、ドキュメンタリー映画『沈没家族』を撮ることを決めた。
映画を撮って感じたことは、「母はやっぱりすごい」だった。そして、「沈没家族で僕を育ててくれてありがとうという、感謝の気持ち」だ。映画も好評で、沈没家族があった中野区の映画館「ポレポレ東中野」を皮切りに、現在は全国を上映行脚している。
「僕を産んだ当時は、子どもを抱えた母親が『自分の時間もほしい』なんて、大きな声で言えなかったと思います。母自身もそういう価値観で親に育てられてきたはず。だから親を頼らず、一緒に子育てをしてくれる人を探したんだと思います」(同)
穂子さんは、どう考えているのか。シングルマザーで経済的に余裕がなかったのも事実。そのことについて、穂子さんは「沈没家族」の上映イベントでこう言った。
「そのときは楽しかったからやっていた。でも今から思うと沈没家族がなかったら、わたしたちはヤバかった」
土さんは、母のことをこう笑う。
「母にとって、生きる=楽しいこと。人生を、そして育児を楽しむには、誰かと一緒にやりたい、そしてそれは血のつながった家族でなくてもできると、本能的に察知していたんでしょうね」
共同保育で育てられた土さんにとって、「家族とは何か」とたずねると、「わからない」という答えが返ってきた。
「家族だから助け合わないといけないとか、名字が一緒でなくては一体感がないとか、そういう考えがあるとしたら、家族は息苦しいと思ってしまう。沈没家族も大切な人たちですが、あえて『家族』とくくらなくてもいい。それぞれと一対一の関係があったらいいんじゃないかなって思います」
「拡張家族」で繰り広げられている自由で楽しげな生活や、何より「沈没家族」を肯定的に語る土さんの存在は、両親が責任を持って子育てするものだという自己責任論的価値観にがんじがらめになっている現代の親たちに、「周囲を頼ってもいいよ」と温かいエールを送っている。(平井明日菜)
投稿者 hoiku : 2020年01月08日 TweetList
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