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2019年10月24日

歴史からなにを学ぶか

学校で学んできた歴史。

農業の発明、科学技術の発達、産業革命など、原始時代からの進歩という流れで教わってきたように思います。

現代を、近代思想を是とすれは、そこに至る歴史は進歩してきたことになりますが、これは一面的な歴史のとらえ方だと思います。

今回はその歴史のとらえ方、そこからなのを学ぶのかを考えてみます。

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以下(https://www.buzzfeed.com/jp/sakimizoroki/sapiens-interview)より引用します。
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3つの革命
〇1万2千年前、狩猟採集から農耕への移行「農業革命」が起きた。ハラリ氏は、人類の生活は豊かになったという解釈は偏っており「史上最大の詐欺だった」と主張する。

「どの観点から見るかで変わります。たしかに農業革命によって人間は大きな集団的な力を得ました。都市、国、帝国といった集団ができました。貿易、経済成長、技術革新も生まれました」

〇単位面積当たりに得られる食物は増え、人類の数は指数的に増えた。

「一部のエリート、例えば、王、牧師、王侯貴族といったような人々の生活は、非常に改善されました。歴史は、そうした一部の王侯貴族の見方や、人間の集団的なパワーという観点から述べられます。そうした場合、農業革命は大きな前進だったと言えます」

〇ただ、大半の人たちにとって、生活の質は悪化したという。

「人間の体や脳は、木に登ったり、動物を追ったりという狩猟採集生活に適応するように発達してきました」

「ところが農業革命で、畑を耕し、植え、収穫し、遠くの水源から水を運ぶ、というような肉体労働を強いられ、身体的な苦痛、負担が大きくなりました。狩猟採集より、きつい肉体労働をすることになりました」

「精神的な観点でも、繰り返しで、退屈な仕事になったと思います」

〇きつくなった仕事。さらに、食生活も悪化したという。

「狩猟採集生活では、肉、魚、木の実を食べ、バランスの取れた豊かな食生活でした」

「農業革命後の農民の主食は、米や小麦など非常に偏り、以前よりも貧しくなったと言えます」

〇病気や搾取も広がった。

「感染症も発生しました。家畜が主原因です。農業社会になってコミュニティーが発達することによって、感染が広がる危険性が生まれました」

「ある特定の階層やグループに対しての差別、搾取も起きました」

〇人類はみな豊かになったのだろうか。

「まだ大勢の人が、2万年前よりも厳しい、満足度の低い生活をしていると思います。日本のような先進国の中間層は、よりよい生活環境にあると言えますが、バングラデシュの織物工場の労働者は厳しい生活を強いられている。大きな発展の成果を全人類が享受できているわけではありません」
〇貨幣・国・宗教という虚構

〇7万年前、新しい思考と意思疎通の方法を得る「認知革命」が起きた。人類は「現実には存在しないものについて語り、信じられる」ようになり、「大勢で柔軟に協力するという空前の能力」を手に入れた。

貨幣、国、宗教??。虚構・共通の神話を信じることで、無数の見知らぬ人同士が力を合わせられるとハラリ氏は分析する。

虚構は悪いイメージがあるが?

「虚構は重要で、価値があるものだと思います。なければ社会は成り立たない。例えば、貨幣がなければ、今の経済は明日にでも崩壊してしまう。秩序がなければ、互いに殺し合ったり、そうしても罰則も与えられなかったり。ですから、虚構が悪いと言っているわけではありません」

「例えばサッカーには誰もが合意しているルールがあります。このルールは自然なものでも、神からもたらされたものでもない。人間がつくったものです。でも、そのルールに合意、つまり共通の虚構を受け入れなければ、サッカーをプレイできなくなります」

「問題なのは、作り上げた虚構、フィクションであるということを忘れてしまうことです。作りあげたストーリーにあまりに執着して、それ故に争い、戦争に行き、殺し合いをする。人が虚構に振り回されてしまう」

「例えば、私の国イスラエルでは、ユダヤ人とイスラム教徒との争いが続いています。原因は宗教で、聖書やコーランは人が作ったものです。人が作ったものをもとに、なぜ殺し合うのか、と思うのです」

〇宗教や国家が虚構だと指摘すると、怒る人たちもいるだろう。

「たしかに、宗教やナショナリズムについては、非常に強い思い込みを持っている人がいます。そうした人たちの反感を買うと思います。あくまで人々がつくったストーリーであるのに、怒りを持ってしまうわけですね」

〇虚構だと相対化することで、困難な課題の解決につながるのか。

「イスラエルに関してはそう言えると思います。すぐに解決できないかもしれませんが、緊張関係は緩和されると思います。中東地域全体にとって問題解決の第一歩になると思います」

〇経済成長と幸せ
500年前に起きた「科学革命」。進歩を信じ、新しい知識を得るのは良いことで、どんな問題も克服できると確信するようになった。この考え方は経済にも取り入れられ、技術や組織が発展すれば、富の総量が増えると信じるようになった。「資本主義の第一の原則は、経済成長は至高の善」だと指摘する。

「いま世界で一番重要なストーリーは資本主義。経済成長が世界の全地域をよくすることにつながると信じています」

「個人レベルでは、もっと物を買うことで幸せになれると思っています。大きな家、自動車、旅行など。より多くの物を購入すれば、さらなる生産が必要となる。それは経済成長につながります」

「国や社会という集団の観点でも、世界中で、経済成長が直面している問題を解く鍵だと思われています」

「安倍首相は日本経済の再興のために心を砕いているし、中国は政治的には共産主義ですが、経済面では経済の成長を第一と考えています。インドでもモディ首相が経済の成長を掲げて選出されています」

「問題なのは、経済成長はある一定レベルに達した以降は、必ずしも幸せに結びつかないということ。物を買うことが幸せにつながらない段階が訪れます。集団でも、経済の成長がすべての問題の解決をもたらすわけではありません。経済成長を追求すれば、生態系には大きな危機が訪れる」

「地球温暖化を止める唯一の方法は経済成長を止めることでしょうが、どの国もそうしようとはしません。人々は反対運動を起こすでしょう。人が生活していくには経済成長が重要だという考え方から逃れられない。それが21世紀の最大の危険な状況だと思います」

〇超人に代わられる未来

本は終盤で未来に焦点を当てる。遺伝子移植など「生物工学」、バイオニック・ハンド(義手)や脳とコンピューターを直接結ぶような「サイボーグ工学」、コンピュータープログラムのような「非有機的生命工学」によって、超人が生まれるかもしれない。「私たちがネアンデルタール人を見るのと同じぐらい見下した目で、私たちのことを見るものを生み出しうる」とハラリ氏。

2014年に書かれた原著。今も考えは変わらないのか?

「同じように考えています。100年、200年後に新しい生命体が作られ、人間に取って代わって優勢となる可能性があると思います」

「強調したいのは、人工知能の進化が予想していたよりも早かったということ。過去2年で大きく前進しました。例えば『AlphaGo』(Googleの人工知能)がイ・セドル九段を破りました」

「5年後には自動運転車がSFではなく、現実になると思われます。人工知能は自動車に使われるだけでなく、人間が今やっている多くの仕事の肩代わりをして、人間を労働市場から追い出してしまう可能性もあります」

〇歴史を学ぶ意義

誰もが学校で習う歴史。だが、どんな意義があるのだろう。「想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解する」ことが肝だとハラリ氏。どういう意味か?

「過去は、様々な考え、想像力、夢といった形で、人間をコントロールしてます。ただ、人は歴史によって自分がコントロールされているということがわかっていません」

「歴史を学ぶことで、どんな人間がどんなストーリーを作ったかを理解できます。自分たちが作ったものから自由になれます」

「自国やその歴史を見ているだけでは21世紀の問題の解決には不十分だと思います。私たちはグローバルな社会に住んでいる。地球温暖化や人工知能、経済の持続的成長など、直面する問題はグローバルです。よい形で解決していくためには、世界的な観点の歴史、状況をみていく必要があります」

〇人類は幸せになっているのか?

本書は、人類の歴史を俯瞰した後、人間が満足しないままでいることを指摘して終わる。これまでの歴史書は、社会構造の変化や帝国の盛衰、技術の進化が「各人の幸せや苦しみにどのような影響を与えたのかについては何一つ言及していない」とハラリ氏。歴史研究の欠陥だという。

「幸せの研究は、現在の問題への理解を深めることになります。日本やアメリカなどの今の状況はいつの時代よりもいいはずです。平和で飢餓もなく、感染症の大きな流行もありません。様々な問題が解決されています」

「それでも人々は満足していない。落ち込む人も多い。例えば、アメリカ大統領選挙が行われていますけども、人々の政治システムへの怒りがあふれている」

私たち人類は以前よりも幸せになっただろうか?
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過去の歴史に学び未来を描く、というお決まりの歴史観とはだいぶ違います。「歴史によってコントロールされている」という認識は重要で、私たちは私権意識と近代思想のいストーリーに洗脳され支配されている、という事実に気づくことが必要です。

教科書を疑う、歴史を疑う、自分たちが信じている(信じ込まされている)歴史から自由になって、事実を追求することが「歴史」を学ぶ意味なのかもしれません。

投稿者 hoiku : 2019年10月24日 List   

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