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2018年11月22日

答えて終わりの授業はいらない。深く考える楽しさこそが学びの本質。

現現在の学校教育が行き詰っているのは明らかです。
この問題を30年以上前に指摘し、小学校での対話型授業の実践を通じて本来の「学びを」追求していた人がいます。

今回は教育哲学者でもある林 竹二氏の言葉を紹介します。

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以下(https://ai-am.net/hayashi-takeji)より引用します。
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学校は今、誰をしあわせにしているのか

林 竹二著『教育亡国』1983年発行

『日本に、教育はあるのか?
明白に、いまの日本に教育はない。』

『教育をひとまとめにして財界、産業界に「売り渡した」文部省。
日本の学校は、水俣の海になってしまった。
学校が、子どもの生きられない場所となった。』

と30年以上も前に語っていた 林 竹二 さんの言葉です。

『あの夢のように美しい水俣の海が、チッソのたれ流した有機水銀の濃厚汚染をうけて、死の海に帰られてしまった。この海の魚や貝を食べた猫は、脳を犯されて、狂いまわっては相ついで海に飛び込んで死んだ。鳥が方向感覚を狂わされて、群れをなして海に突っ込んで死に、岩に激突して死んだ。

いま、日本の学校の子どもたちをとらえている狂気の現象は、これと同じ異常現象なのではないのか。学校という世界が、チッソのたれ流した有機水銀のような何らかの「原因物質」によって濃厚汚染をうけて、根底からの環境破壊がおきてしまった。子どもたちは、その学校で生きるほかない。子どもたちに見られる狂気の現象を、学校という環境が根底から破壊されてしまっていることから生じた異常現象としてとらえるのでないかぎり、事態への正しい対応は不可能である。

いま緊急に求められているのは、学校という世界に。この根底からの環境破壊をもちこんでしまったものが何なのか、その「原因物質」をつきとめる努力であろう。私は本書で、学校という教育の場から教育を追い出して、子どもの生きられない世界に変えてしまったものが何であったのかについて、私なりにさぐりを入れてみようと試みてみた。』
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魚が生きられない海。子供が生きられない学校。
衝撃的なたとえですが、ことは環境破壊と並ぶ、いやある意味ではもっと深刻な人間破壊という問題なのだと思います。

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林 竹二著『教育の根底にあるもの』1991年発行
●日本に教育はあるのだろうか

『学校でいい成績を取らなければ人生の敗北者になるほかないんだというようなことを教え込むでしょう。そういうのがみんな子どもの中へ蓄積されていくわけです。
試験の結果、点数によってあらわされない一切の価値が学校から閉め出されてしまっています。学校は人間を人間として育てる場所ではなくなってしまったわけです。私の言葉で言えば、学校というものは、ことに中学校が「人間性破壊の工場」になっているわけです。』

●いのちを問いなおす
『教育というものは、教師の力で子どもを変えることじゃないんです。子どもの中には生命があって、生命というものはふだんに自分を成長させ、自分を変化させる力であるわけですね。そういう力が働く場所を用意することが教育なんですね。
(略)
いまの学校の先生は、みんな権力で子どもを動かしているわけですよ。ことにいま中学校にひどくなってますね。
ほんとうに教師が教師として子どもと教育的なかかわりを持つためには、まず第一に闘わなければならないのは、自分自身の中における権力者性ですね。』

●「わかくさ学級」のこと
『教育を私は、基本的には、人間の子の人間として成長するのを助ける仕事だと考えている。だから、生命にたいする畏敬を欠けば教育は成立しない。だが、日本の学校教育の致命的な欠陥は、生命への畏敬の念を欠いていることだろう。(略)

そのことが、日本の学校をじつに荒涼をきわめた世界にしてしまっている。教育がなくて調教だけが教育の名においてまかり通っている。そして、もっと恐ろしいことは、教師たちがその言いようもない無惨な荒涼に直面しながら、それを異常と感じていないことである。……』

●自分の心のなかに動いているものと向き合う
『教育の根底にあるもの』の本には、林竹二先生の授業を受けている子どもたちの写真が豊富に掲載されているんですね。その子どもたちの表情はあまりに美しくて、涙をこぼしてしまいます(何度みても!)。

林竹二さんは言います。「授業というものは、その子どもが精一杯に生きるような時間にならなければならない」と。

●教育の本質
いったい、「学校」とはなんでしょう?
なぜ、「学校」に行くのでしょうか?
「このままでは日本の学校教育はヤバい」とおもった文科省や、教育委員会、教育学者さん、自治体さん、現場の教師、保護者たちが、さまざまなことを行ってきた集積。。。

わたしたちがいま目にしているありさまは「問題」ではなく、「答え」です。
勉強しなさい。塾に行きなさい。いい点数をとりなさい。方法論やスキルが教育の中心となりました。企業と結びついているから、しかたがないですね。

優秀な労働力者となり、活発な消費活動を行う消費者になってもらわないと困ります。
宿題しないで瞳がキラキラすることされていては困ります。ため息ついて薬を飲んでがんばってもらわないと困ります。

上司の言うことを黙って聞いて、血尿が出るまで働いて、売り上げノルマを達成する人材育成、それが学校教育の事実上の目標に掲げられている時代です。

教育の本質が分からなければ、子どもたちはこの世界を去り続けていくことになるんでしょう。
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30年以上前に、日本の教育問題を鋭く突いた林竹二氏は、自らが小学校での対話型授業を実践していました。

以下(http://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq000001d7vo.html)より引用します。
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「学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわることである。」
林 竹二(『学ぶということ』国土社 95頁)

 この言葉を述べた林 竹二(はやし たけじ)(1906~1985)は、教育哲学者であり教育者であった人物です。彼は、教育の学問的な探求だけでなく、全国の小学校で対話型の授業を行ない、授業を通じて子どもたちの中で「何かが変わる」事実をもって、教育の意味を考え、追求し続けた人でした。

この言葉の前後の、林の文章は次のようなものです。

学ぶということは、覚えこむこととは全くちがうことだ。学ぶとは、いつでも、何かがはじまることで、終ることのない過程に一歩ふみこむことである。一片の知識が学習の成果であるならば、それは何も学ばないでしまったことではないか。学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわることである。

また、次の文章は、林の授業を受けた小学生の一人が記したものです。

答えて終って(左記強調部分について、原文の上部には傍点が付されています)しまうんでなく、考えれば考えるほど問題が深くなっていく。私は勉強していて、どこでおわるのか心配になってきたほどだ。私は一つのことを、もっと、もっととふかくなってゆく考えかたが、こんなにたのしいものかとびっくりした。

学校での学びにおいて、知識の獲得は重要な要素です。しかし、その知識は、私たち一人一人が、物事や自分自身について、より深く思索していくためのものでしょう。林は、そうした深い思索こそ、そして、その思索を通じて、自分自身の固い殻が破られ、それまでとは違う何かが自分の中に生まれたという実感こそ、「学ぶということ」の本質だと言っています。
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「私は一つのことを、もっと、もっととふかくなってゆく考えかたが、こんなにたのしいものかとびっくりした。」この小学生の言葉が全てを物語っていると思います。

人間性を破壊するだけの現代の学校教育を早急に解体し、人間本来の探究する喜びが分かち合える「学び」へと変えていかなければならないと思います。

投稿者 hoiku : 2018年11月22日 List   

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