感謝の心を育む子育てとは?~イヌイットの子育て「教えない」「叱らない」「導く」~ |
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2013年11月28日
感謝の心を育む子育てとは?~インディアンの子育て:「子育て」は最大の充足源~
昨今、「感謝の心」の高まりとは相反して、全く逆の非道な事件も見聞きします。
「感謝の心を育む子育てとは?」シリーズでは、そういった二極化する子育ての現状を自覚し、今後の教育が向かうべき方向性について追究していきます。
追究のおおまかな手順は、下記です。
① 歴史を遡って、日本における子育ての状況や意識
② 海外の子育ての状況や意識
③ それらを踏まえて日本の特殊性とは?を固定
④ 現代の問題点
⑤ 感謝の心を育む子育てとは?
今回は、『②海外の子育ての状況や意識』の一つとして、インディアンの子育てについて紹介します
続きもよろしくお願いします
前回の記事で紹介したイヌイット(イヌイットの子育て「教えない」「叱らない」「導く」)と同様に、冬が長く、氷点下50度になることもまれではない、凍死と飢えの恐れに晒された凄まじい自然外圧状況下で生活しているヘヤーインディアンに着目しました。
彼らにも、「教える」という考えは存在しないようです。
ヘヤーインディアンの社会では、「教える」「教えられる」と言う意識が全くない。それどころか、「だれだれから教えてもらう、習う」と言う言葉がヘヤー語=観念体系として存在していない。よって、「師弟関係」も存在しない。
ヘヤーの社会において、物事は人の行動を注意深く観察し、同化することで自然と身につくことであると考えられている。例えば、自分のまわりにいる友人や従兄弟や兄弟達の猟の仕方、皮のなめし方、火のつけ方、まきの割り方などをじっくり観察することで、男の子は猟の仕方を、女の子は皮のなめし方などを身につける。その同化能力は非常に高く、「子どもの文化人類学」の著者、原ひろ子女史によれば、自身が作った料理を、次の日にはヘヤーインディアンの女性が全く同じように配膳してあり、大変驚いたと言う。
更に着目すべきは、同化に対する不可能視の無さにある。
ヘヤー社会では、「誰かが出来ていることは、自らにも必ず出来る」と言う意識が存在している。その為、(誰かを真似て)初めての行動を行う際にも「不可能視」が介在し得ない。考えてみれば、ヘヤー社会で無くても、子どもは「万能観」の固まりで、「不可能視」と言うものがない。自身の子どもを見ていても、(無謀にも)いろんなことを「(自分も)やってみる」と、大人のやることを真似てどんんどんチャレンジしていく。
本来的に「同化」には「不可能視」など介在しえず、「同化するだけ」「やってみるだけ」と言うのが本質なのかもしれない。(当然同化過程における試行錯誤はあるが、それは「不可能視」ではなく、必ず出来ると思っているからこその試行錯誤と言えるだろう)一方で、「教える」「教えてもらう」と言う意識の根っこには、本質的に「不可能視」が存在しているのではないかと感じる。相手が”出来ない”ことを前提としているからこそ、「教える」必要があり、同時に自分は”出来ない”ことを前提としているからこそ「教えてもらう」必要がある。
「教える」「教えてもらう」と言う教育観を前提とした時点で、「不可能視」が介在し、あらゆる可能性に蓋をすると言っても過言ではないかもしれない。
(『ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」』 より)
先人を真似て、学ぶ。
たったこれだけのことで、一人前の責任の取れる大人に成長していくインディアン達。
そんな社会では、「教えてもらってないからできない」とか「才能がないから」とか、できない言い訳が出てくることはなく、「同化するだけ」「やってみるだけ」と、出来ると思って試行錯誤してゆくだけなのですね
また、過酷な自然外圧状況下では、一人では生きていけないことは明らかです。
厳しい外圧に対峙する上では、解脱充足も不可欠なのでしょう。
そして、子どもは部族みんなの中で育っていくと認識されているようです。
このような状況下で、ヘヤーインディアンは集団の活力源となる解脱を非常に重要視しているが、着目すべきは「子育て」を最大の解脱充足源と捉えている点にある。
ヘヤーインディアンは「はたらく」ことと「あそぶ」こと「やすむ」ことをそれぞれ区別している。「はたらく」とは文字通り闘争課題・生産課題そのものであり、「あそぶ」「やすむ」は解脱であると位置付けられるが、「育児」はヘヤーインディアンにとって、「あそぶ」ことに位置付けられているのである。その意識は、子どもを「育てる」と言うよりも、「自分達が子どもに楽しませてもらっている」、厳しい外圧に対峙する上での「活力をもらっている」と言う方が的確である。(日本人が子育てに対して抱くような)しつけ意識は全くと言っていいほど見られない。そのため、子どもに対して忠告したり、命令することは皆無のようである。子どもは大人が「育てる」「しつける」ものではなく、厳しい自然外圧に対峙し、大人達を真似る中で自然と育っていくと認識している。このような意識でいるからこそ、「子育て」に対して妙な責任意識を抱く必要もなく、充足源として捉えられていると考えられる。
ヘヤーインディアンの社会で興味深いのは、「親子のつながり」に対する意識が極めて薄く、容易に養子に出したり、また養子をもらったりする点にある。「自分で生んだ子どもは、自分で育てるのが当然だ」と言う考えは無く、子どもは部族みんなの中で育っていくと認識している。
一応「生みの親」と言う観念は存在し、「生みの親」とは性関係を結んではならないと言う集団規範が存在するが、生んだ方も、生まれた方も、その関係性に執着することは全くない。
むしろ、先述したように子育ては最大の「充足源」であるから、子どもが成長して自立したり、子どもを亡くしたりした小集団(家族単位よりも若干広く流動性のある血縁集団)では、養子を積極的に迎える。一方で、子どもの多い小集団や子ども分の食料がまかないきれない集団では、子どもを積極的に養子に出す。
このようにして、部族全体(概ね350人程度)の中で子どもは親子関係に因われることなく移動し、皆が子育ての充足を得られるような社会構造となっている。
(『ヘヤーインディアンの社会に見る子育て観』より)
子どもは集団に充足をもたらし、生きてゆく活力を与えてくれる
独り占めするものではなく、皆と共有し、共に成長してゆくものなのですね
そして、子供たちが最初に教えられることは、とってもシンプル!
あれこれ状況に応じてコト細かに、手取り足取り、なんてこととは対極です。
じっと聴いてごらん、そしてそれを楽しんでごらん。
「子供の訓練は、じっと座っていなさい、そしてそれを楽しんでごらん、という教えから、はじめられるものである。子供たちは、嗅覚を敏感にして、なにも見るものがないところになにかを見たり、まったくの静寂のなかに、じっとなにかを聞き取ったりするように、と教えられた。じっと座っていることのできない子供は、ちゃんと成長していない子供だ」・・・・・・・・ルーサー・スタンディング・ベア(アメリカ・インディアンの首長)
君たちの耳にはいろいろな音が入ってきている。それは自動車やテレビの音、電話など実に沢山の雑音が君たちの周りを取り囲んでいるよね。でもそんな音から離れて、風の音くらいしか聞こえない所に投げ出されたとしたら、君たちはどう感じるだろうか。
まるで自分がたった一人でポツンと誰もいない所に置かれた時のような孤独感を味わうかもしれない。「沈黙」という得体の知れないものに脅えている自分自身に震え上がるかも知れない。でも先住民と呼ばれる人たちは自分たちの子供たちをまずこの「沈黙」の中に放り込んだんだ。
そして「じっと聴いてごらん、そしてそれを楽しんでごらん」という言葉だけしか言わない。たとえそこに森や泉や動物がいなくてもじっと聴くことを学ばせた。インディアンの社会では「じっと聴く」ことが出来ないものは成熟した大人として認めなかったんだよ。そのようにして先住民族の子供たちは自分たちが立っている世界のさまざまな声を心で聴いたんだね。
君たちがこの沈黙の中でじっと生命の声を聴き取ることが出来たら、君たちの根っこは大地につながり支えてくれると思う。
大地に根をはった人、つまりこの「聴くこと」を真に知っているものは、他の人の喜びや悲しみにも耳を傾けることができると僕は思うんだ。苦しい時にも「あるがまま」の自分を認め、じっとたたずむことが出来る人は倒れないだろうね。それは沈黙を通して大地としっかりつながっているからだと思うんだ。だから君たちもインディアンの「じっと聴いてごらん、そしてそれを楽しんでごらん」という言葉を忘れないでほしい。
(『未来をまもる子どもたちへ』より)
自分中心ではなく、周りの世界の声に耳を傾ける姿勢こそ、大切なのですね。
常に周りから真似び、充足源として感謝され、沈黙を楽しむ。
それらを通じて、インディアンの子どもたちは、
あるがままを受け入れる肯定感や感謝観を育み、そしてコトの本質を掴む力を培っていくのではないでしょうか。
次回は、中国・韓国を紹介します。お楽しみに♪
投稿者 chiue* : 2013年11月28日 TweetList
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