勉強だけの子どもにはしたくない~(6)「人と関われば人は育つ」 |
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2012年11月04日
こんなにすごい!自然治癒力☆+″ ~気が通じれば心も通じる 整体法創始者・野口晴哉氏の事例~
「オーストラリア先住民アボリジニの教え」では、気功とも本質的な繋がりがある事例として、アボリジニのヒーラーの話を紹介しました。
私たち一人ひとりには、もともと自分を癒していく力=自然治癒能力が備わっています。しかし始原人類と現代人とを比べた場合、その能力の差については歴然の差があるように感じます。
ではその差は、いったいどこから生まれているのでしょうか?
おそらく始原人類の時代は、「ナンガリ」のいうテレパシーや鋭い直感力、潜在意識の共有を行いながら、人間が本来持っている自然治癒能力を仲間同士で相互に高めあっていたのではないでしょうか。
鋭い直観力や、潜在意識の共有に基づいた、テレパシーや治癒の現象は、始原人類やアボリジニだけに見られることではなく、現代の日本人にも同様の事例があります。
今回は、昭和初期に「気の感応による身体の調整法」を提唱し、人々の内側に眠っている潜在的な治癒力を喚起し、人間の生命を十全に働かせることを目指して、整体協会を創始した野口晴哉氏を紹介します。
はじめに、野口氏の略歴と簡単な活動内容について。
野口 晴哉 のぐち はるちか 1911年(明治44年)― 1976年(昭和51年)
明治四十四年九月、九人兄弟の次男として東京・上野に生まれる。幼い頃に患ったジフテリアの影響から言葉を話すのに不自由し、幼少期を過ごした漢方医の叔父の許では、さまざまな読書に明け暮れたという。
大正十二年、十二歳の時に関東大震災を体験し、焼け野原で苦しむ人たちが悼まれず、本能的に手をかざしたところ多くの人たちが快復、これをきっかけに治療家としての道を志す。
古今東西の健康法や療術などを独自に探求し、十五歳で入谷に道場を開き、愉気と活元運動を主体とした療術団体『自然健康保持会』を設立。また、十七歳で「健康に生くることが自然順応の姿である」などとする『全生訓』を発表し、以後、一貫して「活き活きと生を全うする」ことを指針に据えた活動に入る。
日本治療師会の評議員を務め、大日本連合治療師会の創設にも寄与。そして治療理念の確立、諸療術の体系化を図る「整体操法」をまとめ上げ、昭和二十二年には整体操法の指導者育成機関として『整体操法協会』を設立。
昭和二十年代後半には身体を通した人間の個性研究とも言える「体癖論」の基礎を完成させた。この頃から、病を治すことよりも人間本来の力を引き出して健康に導く自らの活動を「体育」と位置づけ、「治療」を捨てることを決意。
何かに頼ることなく 自らの足で立つことを指導理念に掲げ、昭和三十一年、そうした健康観に基づく体育団体『社団法人整体協会』を文部科学省(旧文部省)の認可を受けて設立。
個人指導のほか活元運動の普及、愉気法などさまざまな整体法の講習会を全国各地で開き、心と体を一として考える独自の人間研究においても体癖をはじめ潜在意識の研究、子育て、教育などの分野にも踏み込み、多くの著作を残した。
野口氏は、卓越した療術家であると同時に、人間の身体や意識について、現代の常識に捉われない考え方を持っていました。たとえば、一般的に風邪は一日でも早く治癒させるべきものと扱われていますが、野口整体では、これを体調調整の絶好の機会と捉えています。
それだけでなく、風邪を身体による自発的な調整要求の表れとして位置づけ、上手に経過させることで、鈍くなった身体の機能を蘇らせることができると考えています。
(風邪についての野口氏の考察は、るいネット「風邪は万病の素を取り除く」も参照してください)
50年に亘って数万人もの人の身体を看ていた野口氏には、周囲の人にとって不可思議で仕方ない現象が、日常的に起こっていたそうです。それでは、野口氏の事例を、その妻であり、最も身近な弟子でもあった野口昭子さんが書いた本の中から引用します。
以下、野口昭子著『回想の野口晴哉 整体法創始者の伝記』53~55ページより引用します。
「最初に意欲がある、空想がある、理由や理屈はあとからつけるものだ」と先生は言う。
だから“念じた通りになる訳はない”と思っている人は、そう思っていることが実現しているに過ぎないのだろう。人間は自己の可能性をいつのまにか限界しているのかもしれない。とは言っても、私自身、やはり先生の“念ずれば現ず”が、不思議で不思議でしようがなかった。
これは、戦後の下落合道場でのことであるが、
「僕が、たとえば羊羹を食べたいと思うと、誰かが必ずもってくる」と先生が言った。本当にいつもその通りになるので、弟子のMさんが口惜しがり、
「ここの道場は男より、ばあさんの方が多いですね」と言った。その人は柔道六段の捻れ型(※1)だったので、先生も急に捻れたのだろう。「それなら、今日の夕方、道場に坐っていろ。男ばかり集まる」と言った。
夕方、私はまさかと思って道場を覗いてみた。何と、黒々と男の人ばかりがズラリと並んでいる。階段を上がってくる人も男、男。女は一人もいないのだ。
私は唖然として、Mさんと顔を見合わせた。「奥さま、ほんとうに男ばかりですなア」
堂々たる体躯のMさんが、負けたと思ったのか、気弱そうな小声で囁いた。夜になって、先生が言った。「人間には、意識を通さないで、直接、感じあう心がある。だから僕が思念すると、何処かで、誰かが感応して、集まってくるんだよ」
(※1「捻れ型」とは、野口氏が考案した「体癖」の分類の一つ。体癖については『行動や性格は、意識以前に「体の癖」で決まってくる』も参照してください)
野口氏は、人間の身体構造と感受性の関連に始まり、人々の潜在意識の働きや、顕在化した意識や言葉以前の世界にも深い興味を持っていました。
また、“人の言ったことや書いたことは、一切信じなかった。自分で感じたこと、体験したこと以外は何も信じなかった”という野口氏は、指針術、心霊術、催眠術、透視術などの実験を盛んに行った時期もあったそうです。
引き続き、前掲書61ページより引用します。
透視の話は、全く不可思議な世界であった。霊眼といって、眉間の間から気を凝らしてみると、透視できるようになるというが、その方法は教えてくれなかった。
その理由を訊くと、
「そういうことをやると、長生きしないからよした方がいい」と言った。私は咄嗟に、「それなら、長生きしないようなことはやめて頂戴」と言った。私は先生の透視能力の話を知っていたからだ。
すると先生は、
「僕は子どもの時から自然に見えてしまうんだ。人の体でも、じっと見ると、悪いところが黒く見える。だから、道場で向こうから歩いてきて僕にお辞儀をするまでに、みんな判ってしまうんだ。僕が背中を調べるのは、それを確かめるためだった」
先生にしてみれば、体に害があるというレントゲンなどをわざわざ使って調べ、それから何処がどうなっているというのでは“遅い”という感じだったのだろう。
「僕が困ったのは、往来や電車の中で、目の前にいる人の悪いところが見えると、手がつい出てしまうことだった。子どものうちならまだしも、年頃になると怪しまれるからね。それでいつも腕組みしていた。それでも、そこの黒く見える人は、どういう歩き方、喋り方をするか、あとをつけて観ていたこともある」
また、野口氏は、目の前にいる人の体の異常だけではなく、遠く離れた人の体の変動を感知することもできました。たとえば、野口氏は、過去に整体操法(「気」の交流を用いた身体調整法)をしていた人が亡くなることを、リアルタイムに感じていたそうです。
引き続き、前掲書63~65ページより引用します。
しかし、日暮里時代はやはり不思議な話の方が多い。
中でも、Iさんの話は、何故か私の妹を思い出させる。「日暮里道場に来ていたIさんという女の人は、結核だった。ところが両親や親戚の人たちが反対して、病院に入れてしまったので、僕もIさんのことは、すっかり忘れてしまっていた。」
「ある日の夕方、道場の階段を上がって二階の書斎に行こうとしたら、急に体がだるくなり、気分が悪くなり、そのまま階段の途中で、寝てしまったんだ。その時、Iさんが死んだことを感じた。
それから何日か経って、Iさんの両親が訪ねて来ていうには、娘は病院で亡くなったが、その霊柩車がどうして道を間違えたか、この道場への道を曲がって来てしまった。運転手は、道を間違えたことに気づいたが、道が狭いために道場の門の中にバックで入り、方向転換して、火葬場に向かった。娘がそれほど先生の処へ行きたかったのかと、その時初めて気づいたというのだ。可哀そうなことをしたと涙を流していた」
先生のこういう特殊な現象は、ラッポールとか、テレパシーとかいうものであろうが、先生はもっと不思議な話をした。
「僕は日暮里時代は夜遅く原稿を書いたまま、眠ってしまうことが多かった。ある晩、机に突っ伏して眠っていると、危篤状態だったMさんというおじいさんが机の前に坐っているんだ。
“遠くへ行くから御礼に来た”というから、“死んだのですか”と訊くと、頷いてすーっと消えた。ところが翌日、Mさんの家に呼ばれて行くと、おじいさんは、ちゃんと生きている。そして、昨夜来たことも何も知らないんだ。Mさんは、それから四日のちに亡くなった」
私は、先生の愉気(※2)を受けていた人が亡くなるとき、誰よりも先ず、先生のことを思い浮かべる、それを先生がすっと感じるのだと思った。そういうとき、先生は、本当にその人と同じような状態になり、手足も冷たく、顔色も蒼ざめて、そのまま静かに寝てしまうことがよくあった。
初め何も知らなかった私は、気も転倒するばかりに驚いて、必死になって愉気した。ところが、しばらくしてパッと起き上がると、ケロッとして、
「今、何時?」と訊くので、私が、「○時○分」と答えると、「今死んだ」と言うのである。だから家族の方からお知らせがある前に、大抵は、その時刻まで知っていたのである。
(※2「愉気」とは、「気」の交流によって生命力の働きを高める方法。詳細はるいネット『生命の根本エネルギーを呼び覚ます「愉気法」』も参照してください)
ここまで紹介した野口氏の透視能力などの事例は、現代人の常識からすれば確かに特殊な現象です。しかし、西洋でテレパシーやラポールと呼ばれる現象も、“なんとなくそんな気がした”とか“虫が知らせた”という表現にも見られるように、日本人の間では昔から一般的に認識されていました。
野口氏自身は、こうした現象をどう捉えていたのでしょうか。
親と子の間でもそうですが、赤ん坊のお腹が空いた頃に乳が張ってくるとか、何か胸騒ぎがするので外に出てみると自動車の通りに出ていたとかいうことがある。こういうことは日頃経験することですが、これをラポール現象といいます。
心と心が直接伝わりあう働きで、潜在意識現象の一つです。ちょうどテレビやラジオと同じような人間の波動が、直接ある特定の人に伝わってゆくことを言います。
(中略)
兄弟でも恋人同士でもそうで、双方にラポール的な心があれば何も言わないでもお互いの心が感じあえる。そしてそうなって始めて話も通じる。いや、話さなくてもピンと判りあえるということです。そうならない内は人間同士の気が繋がったとは言えない。意志表示をしなければ相手に心が伝わらない、説明しなけらば伝わらないと思っている人々は、ラポール的、テレパシー的な心の本質を知らないのです。やはり心を物と同じに扱っていると思えるのです。
西洋医学では人間の体を物として扱っています。死体保存の技術から人間の体に関する知識が出てきている。最初のボタンをかけ違えると最後までかけ違える。
生きている人を切り刻んで除き取ったりして片輪にすることが治療なのだとやっているけれども、そういう源を尋ねると、やはり死体保存的な考えがある。もし生きものを丁寧に見てきたのなら、生きているものの中にある気というものを最初に感じる筈だと思うのです。
野口氏は、愉気による治癒や、テレパシーやラポールといった現象は、「気」が通い合いさえすれば、自然に起こる現象だと捉えていました。
生物界では、言語というコミュニケーションの方法を持たなくとも、イルカやコウモリに代表されるように、音波などを使って仲間同士で交信する事例が無数に存在しています。
生物の進化の歴史が、単細胞生物から段階的に塗り重ねられてきたものである以上、人類が通常眠らせている“直接相手の心に働きかける能力”が、何らかのきっかけで顕在化することは充分に考えられます。それを使い続けていれば、当たり前のように発揮できるようになったとしても、不思議ではありません。
野口氏に話を戻すと、彼は、幼少期にジフテリアに罹り、言葉が思うように喋れない時期があったそうです。これをきっかけとして、相手の言葉や顕在化した意識以前の感覚を掴む能力が、著しく発達したと考えられます。
さらに、大震災を契機にして、苦しんでいる相手と「気」を通わせ合う整体の操法を行うようになったことで、観念回路以前の、共認機能や本能上の感覚が、研ぎ澄まされていったのだと思われます。
だからこそ、相手の意識や身体の状態に深く同化でき、多くの人の治癒力を高めることが可能だったばかりでなく、整体操法(愉気)を通じて「気の交流」をした人達とは、潜在思念の地平で深く同化することができ、遠く離れていても意思を通じ合うことが可能だったのではないでしょうか。
次回もお楽しみに
投稿者 daiken : 2012年11月04日 TweetList
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コメント
投稿者 野口さん
野口さんがそんなに長生きしていない理由は、掲載されている記事を読めば書いてありますね。
私が思うに入りと出の関係でしょう。物凄い収入がある会社や人でも、支払いがとんでもなく多い場合だってある。
野口さんが気を操る技にいくら長けていたとしても、それを超えた大勢の不治の病の人を扱ったり、霊的に相手からいきなり繋げられたりする日々、なかなか一般人とはかけ離れたいそがしさだと想像します。
投稿者 野口さんへの返信
コメント&返信ありがとうございます^^
気を操って長生きすることが目的ではなかったのかも??
気の持ちようかもしれませんね(笑)
投稿者 副管理人
前々から気になっていたのですが、野口さんは何故わりと早く亡くなられているのでしょうか?