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2012年08月25日

こんなにすごい!自然治癒力☆+゜~自然治癒力を最大限に生かした東洋医学~

人間は大自然の一部であり、自然界の変化に影響されながら生きています。この自然界の変化に加えて、私たちをとり囲む社会環境のなかで健康を保つことは、容易なことではありません。
しかし、私たちのからだには自分自身のからだを治す叡知が備わっています。からだがもっている自然治癒力こそ健康を保ち病気を治す本当の力なのです。

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私は小学生の頃、よく祖父の家に遊びに行きましたが、そこで風邪で熱を出したり、腹痛や頭痛を起こした時がありました。祖父はその時私を寝かせて、さすったり、患部に手を当てたりしてくれました。風邪で熱を出した時は、1時間余り全身をさすってくれました。そうしてもらうととても気持ち良くなりぐっすりと眠ることができました。朝目が覚めると熱が下がっていることが幾度もあったことを記憶しています。腹痛や頭痛を起こした時は、患部に手を当ててくれました。そうすると患部が暖かくなってきて痛みが和らぎました。今でもおなかの調子が悪い時などは、自然と手をおなかに当てていることがよくあります。祖父が行ってくれた治療は、生気療法と言って、人間の手から何かが出ていて、それで病気を治すと言っていました。

注)生気療法:「生気」とは、人体を組織する細胞の活動から生じる未知の生体エネルギーであり、主に指先と掌から放射される。その生気によって身体のあらゆる部分に誘起される自然発生運動を「生気自己運動」と言う。この生気自己運動によって、自らの体内の生理的作用を促進し、疾病を治し、苦痛をやわらげ、虚弱体質を改善し、陰鬱の気性を快活にするのが「生気自強療法」である。
石井常造陸軍少将が、大正末から昭和の初め頃、生気自強療法を唱え生気の医療への応用を図った。

西洋医学や東洋医学が発達する以前、原始時代より、人は手でなでたり、さすったりして手当てをしていました。そして手のひらに始まった治療法は、やがて鍼・灸・マッサージへと発展していきました。いずれにしても手から出た何かが、相手のからだに浸透してよい気持ちになって心が癒され、よくなることにつながったのだと思います。
西洋医学ではからだを各専門分野に分けますが、東洋医学では臓器というものはからだの枝葉であり、本来からだはひとつで、各器官は互いに関連しあい、助け合って健康づくりをしているものと考えているようです。

病気がすべて治る「気」の医学  青島 大明より引用します

「病院で治らないと言われた方こそ、来てください」 私はこのように掲げて、患者の皆さんと接しております。しかしなにも、私が行う施術が、病院で施される治療、つまり現代医学よりも優れていると言いたいわけではありません。
現代医学にも優れた点はたくさんありますし、その発展のお陰で多くの人々が助かっているのです。が、残念なことにその現代医学でも治し難いさまざまな症例があることもまた事実です。大きな副作用を伴ってしまう治療もあります。
なぜならせっかく発展した現代医学ですが、構造的に大きな欠陥があると思うのです。この弱点を埋めないことには、より効果的な治療は望めないかもしれません。
では、現代医学の弱点とは何か。
それはあまりにも専門化・細分化しすぎたところにある。私はそう感じています。そのために、患部だけに集中しすぎて、患者さんの身体全体の健康を考えないでいるような気がしてなりません。
現代医学は、あまりのも細分化した分類がなされているのではないでしょうか。
内科、外科、整形外科、形成外科、眼科、耳鼻咽喉科、産婦人科・・・・ものすごく細かく分けていますが、果たしてこんな分類に意味があるのでしょうか。
末端の事柄をどんどん追求していくにつれ、ますます基本から離れていってしまう。あたかも木を見て森を見ないように、患部だけを診るのが精一杯で、身体全体に目がいっていません。西洋医学は、身体全体を見渡していない。身体全体が持つ「生命力」を軽んじているように思うのです
そのために、たとえば心臓は治せたけれど腎臓はやられっぱなし、といったように、患者本位の治療ができなくなってしまいます。

科学の進歩自体は素晴らしいのですが、一度立ち止まって根本を見据える必要があるのではないでしょうか。
私は、生物が生きていくうえで欠かせない「生命の源」である「気」を使って、現代医学では治し難い患者さんの健康のために努めています。
気功では、その人の環境、生活ぶり、性格、行動、習性、慣習など、すべてが関係して人間の健康も決まってくると認めて、あらゆる情報を集めたうえで施術を行っているのです。普通の人でも、本能の力が高まった時には、思いもかけない能力を発揮します。
たとえば、自分の子どもが怪我をした時に、母親が「痛いの痛いの、飛んでいけ」と言葉をかけながらさすっているうちに、子どもが落ち着くということはよくあります。これは、単に子どもの気持ちが休まり、安心することで痛みを忘れてしまうだけではないようです。
本当に痛みを感じなくなる。つまり母親が「気」をコントロールして、子どもから「悪い気」を取り払っているのでと考えられます。
でもその母親は、普段から「気」をコントロールできているかといえば、そうゆうわけではないと思います。自分の子どもを助けたいという、せっぱ詰まった状態だからこそ、無の境地に入り本能の力が働き、「気」を操る能力が増したのです。
人間ならば、どんな人にでも「気」を操る力は備わっています。ただ、それを使うために無の境地に入れるかどうかで、使いこなせるかどうかが変わってくるのです。
文明社会の中で、人間はだんだんとその能力を使わないようになり、退化してしまっただけのことです。ただ、先に記しましたように、修行を積むなどすることで雑念を取り払ったり、愛する子どものために集中することで、無の境地に達した場合に、その本来備わっていた本能的な力が湧き出してきます。
「火事場のなんとやら」などという言葉も示す通り、人間というものは、せっぱ詰まれば普段では考えられないような力を発揮するものです。それは、本来備わっていた能力が使えるようになるからです。

人は良いエネルギーを積極的に取り入れながら、エネルギーの交換をするというのは、とても大切なことのようです。

コンピューター用語に「最適化」という言葉があります。長い間コンピューターを使い続け、ファイルの保存と削除を繰り返しますと、やがてディスクの空きスペースにファイルが断片的に保存されてしまうような状態となってしまいます。こうしたファイルの断片化が進むと、効率良い使用環境が侵されていってしまいます。
それを防ぐために、時々はファイルの整理整頓・最適化をやらなければなりません。この最適化と同じことを、人間の脳や身体でも行う必要があります。
眠るというのは、最も簡単な最適化といえます。夜になったなら寝て、朝になって起きだす頃には、脳と身体は整理整頓されて、再び活動に動き出すにふさわしい環境に書き替えられているのです。
実は、人間が、「気」を放出するのは夜中なのです。夜中に寝ている間に、知らず知らずに「気」が交換され、スムーズに最適化が行われているわけです。文章を書く人には、深夜の11時から1時くらいの間にペンが冴えわたったりする人が多いようです。音楽家も、曲を作るのは夜が多いといいます。感性豊かな人は、普通の人が寝ている時間にこそ創作活動がはかどるそうです。
というのも、彼らクリエイターたちは、多くの人が寝ていながら発する「良い気」を吸収するからです。人は、就寝して1時間くらい経った頃から経絡が安定し、「気」を発し始めます。その中の良い情報をキャッチできる人が、夜中のものすごく効率よく創作活動できるというわけです。

「気」が目に見えない、測定もできない存在であり、また現在では一部の人達しか「気」を自由に操る力を発揮できていません。そのためどうしても西洋医学の世界に従事する人々から、非科学的であるとして否定されてきました。また西洋医学の世界に従事する人々だけではなく患者の多くも「気」の力を信じようとしませんでした。
ところが「気」を通じて、その人が今どのような状態であるか、どのような原因で病気になったのかを知ることができ、また西洋医学の知識と共に「気」の力を用いて、治らないと諦めていた患者を救ってきたことも事実です。
細部に分けていきどんどん追求していく西洋医学と身体全体が持つ「生命力」から治療していく東洋医学の統合が必要な時代になってきているのだと思います。
今回「気」について勉強していく中で、「気」が「同化能力」と関係しているように思えてきました。次回は「気」が「同化能力」にどのように関係しているのか、探っていきたいと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます

投稿者 toshi : 2012年08月25日 List   

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