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2011年02月10日

新たな時代の教育制度の提言に向けてシリーズ-3~戦後日本の教育~日本人に自虐史観を植付け、精神性を蝕んだ「新教育指針」-1~

皆さん、こんにちは
いよいよ、新たな時代の教育制度の提言に向けてシリーズ第3弾がはじまりました

現在の教育にも密接に繋がる「戦後の教育」ということで、期待も高まりますね

前回のプロローグで予告していた通り、今回より3回にわたって、「新教育指針」の紹介に入っていきます

戦後の教育の大きな方向性を決めることになった「学校教育法」、及び「教育基本法」、それに先駆けて、配布された、教師のための手引書ということで、中身が気になりますよね

では、早速紹介に入っていきたいと思います 😀

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まずは、「はしがき」です


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新教育指針

                二一・五・一五 文部省
はしがき

 本書は新しい日本の教育が、何を目あてとし、どのやうな点に重きをおき、それをどういふ方法で実行すべきかについて、教育者の手びきとするためにつくつたものである。すなはち第一部前ぺんでは、新日本建設のために何が必要であるかを論じ、それとの結びつきにおいて新教育の目あてとすべきことがらを述べ、後へんでは、それにもとづいて、これからの教育がとくに力をそそぐべき重点をあげて説明した。第二部はこれらの目あてや重点を、学校教育の実際において、どんな仕方で実現すべきかを説いたものである。いひかへれば、第一部は新教育の理論を述べ、第二部はその実際を取り扱つたものといつてもよいであらう。

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 国民の再教育によつて、新しい日本を、民主的な、平和的な、文化国家として建てなほすことは、日本の教育者自身が進んではたすべきつとめである。マッカーサー司令部の政策も、この線にそつて行はれてをり、とくに教育に関する四つの指令は、日本の新教育のありかたをきめる上に、きはめて大切なものである。本書の内容はこれらの指令と深い結びつきをもつて記されてゐる。それゆゑに巻末の附録として四つの指令をかかげ、読者の参照に便することとした。

 本省は、ここに盛られてゐる内容を、教育者におしつけようとするものではない。したがつて教育者はこれを教科書としておぼえこむ必要もなく、また生徒に教科書として教へる必要もない。むしろ教育者が、これを手がかりとして、自由に考へ、ひ判しつつ、自ら新教育の目あてを見出し・重点をとらへ、万法を工夫せられることを期待する。あるひは本書を共同研究の材料とし、自由に論議して、一そう適切な教育指針をつくられるならば、それは何よりも望ましいことである。教育者自身のかうした自主的な、協力的な態度こそ、民主教育を建設する土台となるのである。本書が各章に対していくつかの研究協議題目をかかげたのも、教育者が自ら考へることを、たすけるためである。 

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本書は、はじめ省外の権威者数氏をわづらはして草案を得たのであるが、マッカーサー司令部と相談の結果、その内容及び表現を、できるだけ、やさしくわかりやすいものとするために、省内で書きあらため、本省の責任において出すことにした。とくに漢字の制限については本省も大いに意を用ひてゐるので、ここでもそれを実行し、さしあたり昭和十七年に国語審議会が常用漢字と定めた千百三十四字の制限内で本書を書いた。このやうな事情であるから、最初に貴重な草案を寄せられた各位に対し深く感謝するとともに、その大部分が全くかはつた形で出されたことにつき、承認をこふ次第である。

 なほ印さつ・製本などの事情を考へ、一日も早く教育者の手に届けるため、全体を数冊に分けて出し、附録『指令』も別冊として送ることにした。読者において、最後に順序よくまとめられることを希望する。

  昭和二十一年五月
                        文部省

当初は外部学識を入れて草案したが、マッカーサー司令 8) の指示により、「大部分が全く変った形で出された」と記されているように、明らかにGHQによって作られたということを物語っています 😯
また、漢字排除(←背後には、日本語からローマ字意向)の意図を明確に示しています
😈

本文を見ると、その意向が分かります

(本文につづきます

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第一章  序論 日本の現状と国民の反省
一、日本は今どんな状態にあるか
現在の日本が経験してゐる多くの苦しみや、行ひつつあるいろいろの改革は、いづれもこの宣言を受けいれたことから生ずる当然の結果である。われわれは日本のかうした現状をありのままに理解するとともに、れん合国との約束を重んじて、このポツダム宣言の要求することがらを忠実に実行しなければならない。さうして日本が戦争をする力を全く失ひ、その上、国民の自由な意思にしたがつて、平和的な、かつ責任ある政府ができるまで、連合国軍は日本をせんりようしてゐるのであつて、このこともまたポツダム宣言に述べられてゐる。

二、どうしてこのやうな状態になつたのか
さかのぼつてこの戦争をひき起こしたそのことに原因があり、したがつて国民をこの戦争へと導いた指導者たちに責任があるのである。その人たちはほんとうに日本のために、また東亜のためによいことと考へて、やつたのかも知れないが、その考へ方にあやまりがあつて、こんなことになつたのである。今日軍人や政治家や財界人や思想家などのうちで、戦争責任者として、マッカーサー司令部から指名せられ、もしくは日本国民から非難せられてゐる人々は、かうしたあやまちをおかした人々である。

 しかし指導者たちがあやまちをおかしたのは、日本の国家の制度や社会の組織にいろいろの欠点があり、さらに日本人の物の考え方そのものに多くの弱点があるからである。国民全体かこの点を深く反省する必要がある、とくに教育者としてはこれをはつきりと知つておかなくてはならない。われわれは次にこれらの欠点、弱点をあげてみよう。

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(一)日本はまだ十分に新しくなりきれず、旧いものがのこつてゐる。
日本の近代化は中途半端であり、とくに近代精神の本質として後に述べるやうな諸点については、きはめて浅い理解しかもつてゐない。それにもかかはらず、すでに西洋文化と同じ高さに達したと思ひこみ、それどころか、精神方面においては、東洋人の精神、とくに日本人の精神の方がすぐれてゐると思ふ人々すらあつた。かうした誤つた考へを持つた人々が国民の指導者となつて、西洋の文化を軽んじ、その力を低く見て、戦争をひき起し、国民もこれにあざむかれて戦ひ、ついに敗れたのである。そこに日本の弱点があり、国民の大きなあやまちがあつた。

(二)日本国民は人間性・人格・個性を十分に尊重しない。
人間性といふのは、人間か本来もつてゐる性質・能力・要求といふやうなものである。
人間に特有の自由意思によつて、その生活が道理にかなふやうに、正しく善くあるやうに、美しく心地よくあるやうに、信心深くつつましやかであるやうにと願ひ、かつ努力する。そこに学問・道徳・芸術・宗教などの文化がつくり出される。かうしたはたらきが人間性であつて、それらをおさへずゆがめずにのばすところに人生の目的がある。

人格といふのは、人間の人間たる資格、ねうちといふ意味であつて、それは人間性として、そなはつてゐるいろいろのはたらきを、自由な意思をもつて統一してはたらかせるところに成立する。機械やどれいのやうに、自由な意思がなく、他から働かされてはたらくものには人格は認められない。

個性といふのは、人間の一人々々の独特の性質といふ意味である。すべての人が共通に人間性をそなへてをり、まただれでも人格として尊重せられねばならぬけれども、人間性は各人によつてあらはれかたがちがつてをり、したがつて各人は他の人と区別さるべき特色をもつてゐる。これが個性である。

社会生活においても、教育においても、人間性・人格・個性が十分に重んぜられなかつたことは、日本の大きな弱点あつた。そしてこの弱点が軍国主義者や極端な国家主義者に利用せられたところに戦争の起こつた原因もあり、敗戦の原因もある。

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戦争責任は、戦争に導いた指導者(戦犯)あり、日本人特有の精神性が(西洋に比べ)劣っているからだとし、指導者共々、徹底的な「反省」を促すものです

(つづく

投稿者 tateko : 2011年02月10日 List   

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