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2010年11月16日

『新たな時代の教育制度の提言にむけてシリーズ2~7.江戸時代における私塾の意味合いと明治への影響』

こんにちは 😀 よしたつです

江戸の教育編も終盤を迎えました。充足発で広がる江戸の勉強意欲は調べれば調べるほど調査メンバー共々、楽しくなってきますが、幕末から明治にかけては歴史をひとつひとつ丁寧に紐解いていく作業と、教育の出所が民発から官発へと逆転するので、気持ちもちょっぴり沈みがちです。でも、ここ数回調査してみてやっとこさ、明治の教育の全貌が見え始めてきました。まだ荒削りですが、徐々に詰めていきたいと思います。明治の前に今回は江戸期の私塾について扱います

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        上の絵は、蘭学私塾の芝蘭堂の新元会の様子です。(芝蘭堂新元会図)

ちなみに、ここまでも力作なので今回このシリーズを初めて読む方は是非、バックナンバーも目を通してみてください。

  【新たな時代の教育制度の提言にむけてシリーズ2】

1.プロローグ:日本の公教育の変遷と特徴
2.では日本の教育はどうだったのか?日本の公教育のおおまかな変遷
3.藩校から見えてくる教育のあり方
4.近代日本の基盤を作った!?『寺子屋』
5.江戸時代の教育の本質
6.江戸時代の主体的な勉強意欲の秘密』

ではでは気になる私塾についてタイムスリップ!!
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■私塾とは何か?

江戸期の教育機関としては、【藩の運営】する、藩校や郷校の他、【民間が運営】する、寺子屋があった。私塾はその中で言えば【民間が運営】する教育機関という面では、寺子屋に近いものであったが、そこでの教育を受ける意味合いは、もう少し毛色が異なっていた。

端的に言えば、寺子屋が日常の読み・書き・算術・経営を主要に教えていたのに対して、私塾はもっと高度な学問を習得したいという思いに応えるための教育機関であった。それ故、私塾の開塾者のほとんどが巷でも名を馳せるような著名な学者であり、その者に師事を仰ぎたいと思う若者が全国各地から塾生として訪れていた。

こういった性質からか、私塾のほとんどが江戸・京都・大坂に集中して存在しており、江戸から明治にかけての次代をつくる有能な人材を多く輩出してきた

例えば、吉田松陰の開塾した松下村塾は、塾生がわずか50名しかいない中で、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、前原一誠、野村靖、飯田俊徳、渡辺蒿蔵、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎など、尊皇攘夷討幕において重要な役割を担う人材や、後の明治政府の最高指導者達、更には革命運動家を多数輩出している。

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■私塾の源流から変遷

☆私塾の源流

私塾の源流としてあるのは、主に儒学教育の習得にあった。そこで最も有名だったのが、伊藤仁斎が開塾した古義堂(京都堀川)という私塾であった。開塾は1662年の江戸前期まで遡り、そこで伊藤仁斎は幕府中心で編集されていた儒学教育が幕府の推奨する朱子学に傾倒していることに危機感を抱き、純粋儒学教育を目指したことが発端となっている。彼自身、周りから慕われる人徳者であり、その人柄と思想の多くが人の心をつかみ、仁斎自身が指導した教え子だけでも3000人は下らないほどの盛況ぶりをみせることとなった。また、没後も代々仁斎の思想は受け継がれ、別名堀川学校として京都では誰もが知る私塾にまでなった。

こういった系統の私塾は江戸期初期~中期には多く見られた他、和算塾や書塾の系統の私塾も数は少ないが登場してきていた。

☆私塾の変遷

私塾が急激に増えたのは、江戸も終わりを迎える1800年頃の江戸後期になってからである。それまでは、一部の比較的余裕のなる層が私塾に通い、他はせいぜい寺子屋か藩校止まりであった。しかし、江戸も中期から後期にかけて列強諸国の圧力に徐々に押されながら、少しずつ江戸の街に浸透してきた西洋思想や文化に、そこで生きる人々が興味関心を当然深めていくことになった。

とは言え、寺子屋や藩校で、そういった学問を公に学ぶというわけにもいかず、そんな人々の潜在的な期待に応えるように欧州・欧米帰りの学者らが帰国後一同に、蘭学、医学、天文学、西洋術(兵術・砲術)を学ぶ私塾を開設したのである。これら私塾の多くは、確かに純粋な学問教授を目的としていることがほとんどであったが、学ぶ中で西洋との思想的な喰い違いを露見させることに一役買うことになったことは言うまでもない。その結果、幕末の公武合体政策や尊王攘夷思想へと強く誘引するきっかけとなったとも言える。これらからもわかるように、私塾は江戸幕府を底から崩壊させるのに必要不可欠な存在だったのである。

それを物語るように、私塾のいくつかは幕府体制を真正面から批判するような討幕思想に通じる思想教育をしている形跡がいくつも見られている。そのいくつかは事前に情報を嗅ぎ付けられ、幕府の手で強制的に潰されたこともあるが、それはやはり一部であり、幕府と朝廷と列強で揺れ動く幕末の中では、水面下でいろいろな画策が繰り広げられてきたということは想像に容易いことだろう。

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幕末、時代の流れの上で、列強諸国の圧力はすでに避けては通れない段階にまできていたのは事実であり、日本もこのように教育の場で思想を塗り替えることにより、本格的に金貸しの歯車の上で回る一つのコマに組み込まれていったのである。

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以上から、私塾から見える教育は、江戸初期~中期にかけてのより高度な学問の修学を求める期待を発端として成長し、後期には西洋思想の修学に重点が置かれ、列強諸国の圧力に対抗する体制構築への期待に応えるために必要となったことがわかる。

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次回は、明治の本格的な教育システムを扱う前に、寺子屋の衰退過程と要因を具体的に見ていきましょう。

投稿者 staff : 2010年11月16日 List   

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コメント

>私塾
それは一般塾では自分の特別さを証明してくれない事による、さらなる利己主義的発想がもたらしたシステムです、自分さえよければよい、現代の塾とおなじです。

>寺子屋の衰退
驕れる物久しからずの法則そのものです。
ただし平家物語がくだらないとおっしゃるのであればこれ以上はやめときます。

投稿者 Armed Love Power : 2010年11月18日 19:01

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