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2010年11月10日

『新たな時代の教育制度の提言にむけてシリーズ2~6.江戸時代の主体的な勉強意欲の秘密』

「新たな時代の教育制度」を考えていく上で、国家が主導する義務教育という意味での公教育に意識が向かい勝ちになりますが、「義務」ではなく、「主体的な勉強意欲」に基づく民間主導という意味で、江戸時代の藩校や寺子屋での教育は注目に値します。
また、現代の公教育のあり方を一旦リセットして、「本来の教育」ということを考えると、江戸時代の教育は大いに参考になると思われます。
今回は、その意味でも、先週まで3回にわたって状況を押えてきた江戸時代の教育を一旦まとめておきたいと思います。

藩校と寺子屋の概要については、以下を参考にしてください。
3.藩校から見えてくる教育のあり方
4.近代日本の基盤を作った!?『寺子屋』
また、寺子屋での教育の本質という意味では、以下に紹介しました。
5.江戸時代の教育の本質

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ここから拝借

江戸時代の後期には、藩校は250、寺子屋は15,000を超えていたといわれ、特に、1800年頃を境に急激な増加を辿っています。識字率も60~80%と当時のヨーロッパ諸国からみても、3~4倍と群を抜いて高く、江戸時代の主体的な勉学意欲向上の要因はどこにあるのでしょうか!?

要因は、当時の江戸社会に特有の基礎条件としての必要条件と、1800年代頃から急激に高まった背景としての充分条件の二つに分けて押えて考える必要があります。

●必要条件
1.江戸幕府は鎖国政策や参勤交代、兵農分離などの政策により、260年という長期に及ぶ安定政権であり、秩序が維持されていたこと。
2.それにより、農村自治の意識が高まり、新田開発などの政策もあいまって、生産力上昇への期待(富村期待)が高まったこと。
3.一方の藩では、参勤交代や年貢の献上による財政逼迫から、経営課題への意識が高まったこと。さらには、農村の生産力上昇や統合課題に意識が向けられたこと。
4.参勤交代による宿場町や交通・交易網の発達から、地域情報が飛躍的に流通したこと。
5.さらに、庶民の間でも、安心して旅ができるようになったことにより、情報の伝播が加速したこと。
6.その背景として、村落共同体を色濃く残していることから、充足基調で”新しいこと”や”楽しいこと”、”うまくいっている内容”などの地域情報への同化意欲が高まったこと。
7. さらに、これらの急激な変化に対応するかたちで、村落共同体同士の複層かつ広範な地域ネットワークを形成していったこと。

などが、挙げられます。
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ここから拝借
●充分条件
1.急激な市場拡大により、取引や契約、訴訟、帳簿など、書類の取り交わしや計算など文字情報が必要になったこと。
2. そのため(米価の下落→)幕府の財政危機が目に見えるようになってきたこと。
3.欧米・ロシアなどの列強諸国の開国要求という外圧が高まってきたこと。
4.それら急激な社会の変化に対する可能性への期待と、それまでの社会が大きく変わろうとすることに対する不安という矛盾を抱えたこと。
5.これらにより、【社会統合期待】⇒【情報期待】⇒【観念期待】の高まりへ庶民の意識が向かったこと。

これらの要因によって、庶民は実学としての「読み・書き・算盤」を、身につけておくべき素養として受け止め、勢い充足基調を背景とした“みんなで学習”という充足期待を醸成し、それらの期待を受けた識者が次々と寺子屋を興していった。

一方の藩では、四書五経などの基礎的な学問から始まり、統合危機を感じた幕府による朱子学への傾斜(寛政異学の禁)、さらに、欧米列強圧力を受けての(対象把握としての)洋学志向へと、藩校の様相も変化させていった。(藩校の場合は、藩主導という意味では、公教育の色彩が比較的強い)

このように、庶民と藩では、勉学意欲の意識の出所は違ったが、それらが相まって、社会全体に主体的な勉強意欲の高まりを見せた。

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以下参考として、それらをまとめた内容がるいネットに投稿されているので、紹介します。
江戸時代の村落共同体のありよう(7)~主体的な勉強意欲の秘密~

江戸時代の農村は、幕府による兵農分離政策(リンク)、参勤交代、及び鎖国政策などによって、安定期待が実現し⇒農村自治を主体的に推し進め、自身の村は基より周辺地域まで巻き込んで積極的に秩序の維持に向かった。

その結果、村掟などの村落共同体での規範や、外圧に応じて、関係する周辺地域や集団と積極的に共同体制(組合や講など)を組み、約束事を取り交わしていった。

また、支配者からの圧力も文書などを通じて冷静に対処し、さらに、共同体を維持するために、彼らをも巻き込んでいく様や、村の祭祀などの様子からは充足基調の実現思考という様子も伺える。

そういう意味では、江戸時代の農村は、まさしく「村落共同体」であり、また、複層社会において共認原理で秩序維持⇒統合を推し進めたという点では、共認社会のモデルに値する社会であったように思います。

このことから、1800年前後から急激に増え始め、後期には15,000余りを数えた寺子屋という、世界に例を見ない【自主】学校の普及や、当時の世界でも群を抜く高い識字率の背景には、文字による共認形成が不可欠な共認社会であったという側面と、村人自身が文字を実現基盤、或いは充足基盤と捉えていた側面があったように思われます。

さらにその背景には、参勤交代によって発達した交通網や、誰でも安心して旅ができる秩序化された社会、そして、お金が無くても地域の情報や、絵や和歌などの素養があるだけでも宿に泊めてもらうことが出来たといわれるほど、対外情報に対する好奇心旺盛な人達が数多く存在していたということ、さらには、うまくいっている人・集団から学ぶ、“まねる”という本源価値を有していたということがあげられます。

そして、その根底には押し寄せる市場の波と、その予感に基ずく一種の社会統合期待⇒情報期待と観念収束があったのではないかと思います。

1800年寺子屋激増!! 市場の大波(社会原理の大転換)から社会統合期待⇒情報期待、観念収束

1800年頃とは、まさしく「市場の大波が押し寄せた時代」だと思います。

江戸時代は、中期から後期(1700年ごろから1800年ごろ)にかけて、商品経済、貨幣経済が発達し(リンクリンク)、農業に基盤を置く武力統合の社会から、お金が先端価値となる社会(いわば市場社会)へと大転換してく時代だったと思われます。広く農民にまで豊かな社会の(市場の)可能性が開かれた時代といえます。

>18世紀後半以降、自給経済からの商品・貨幣経済へという大きな流れがあり、時代を下るにつれて、農村にも浸透していった。百姓たちは、市場向けに高く売れる作物を栽培し(商業的農業)、また、農産加工業や商業・サービス業など多様な生業に携わることで、貨幣収入を増やし、生活を豊かにしていった。(特産品の増加)<(リンク

一方で、この市場の時代への大転換は、同時に大きな矛盾ももたらします。1770年ごろ以降、頻繁に一揆や打ちこわしが起こるようになりますが、これは紛れも無く市場社会が深化したことの影響です。(商品作物は豊凶の波が激しいため、経営を成功させる人、失敗する人の差が激しくなる。また、市場社会ゆえ飢饉の影響が大きくなる(リンク))

そして、田沼改革(1767~1786)で幕府自ら市場化路線を掲げ、市場化の流れを強化することになります。これは、政策の基礎が、原理レベルで根本的に転換するわけですから、現代の「小泉改革」の比ではありません。大津波だったと思われます。

このような状況、市場の「可能性と矛盾」がセットで社会を覆っていた状況で、1800年頃からから寺子屋が激増していきます。文字が読めれば市場社会で役に立ちますが、それ以上に、村や地域のみんなが文字を読めるということそのものが新しい秩序を志向することですし、激動する世の中で、新しい社会統合を期待して情報収束していったという面が大きいでしょう。(現代のネット収束と同じか?)

>そして、その根底には押し寄せる市場の波と、その予感に基ずく一種の社会統合期待⇒情報期待と観念収束があったのではないかと思います。<(リンク
まさしくその通りだったと思います。

そのおよそ70年後の明治維新以降、信じられない短期間で近代化をなしとげますが、1800年ごろには既に、新しい秩序への期待、観念収束が渦巻き醸成され、新しい社会統合を模索していたからだと考えれば、納得できると思います。

上記投稿の元になっている農村=村落共同体の様子を表した記事も、是非参考に読んでみてください。

江戸時代の村落共同体のありよう(1)~農民自治の広がり~
江戸時代の村落共同体のありよう(2)~村の多様な役割~
江戸時代の村落共同体のありよう(3)~領主との関わり~
江戸時代の村落共同体のありよう(4)~村どうしのネットワーク~
江戸時代の村落共同体のありよう(5)~貨幣経済の浸透~
江戸時代の村落共同体のありよう(6)~豪農も共同体を守った~

投稿者 sashow : 2010年11月10日 List   

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コメント

以前のコメントに返答頂けたことに今日気付きました。ありがとうございました。
しばらく、お互いに認識している問題の解決に向けて協力できないか、ここでチャレンジさせていただきます。

今回もまたあなたとは違う(と思われる)別の視点として取り扱い願います。単なる仮説です。

寺子屋の普及が自主的だったかどうか、私は大変疑問に思っております。
明治時代初期に施行されたさまざまな市町村などの条例を図書館などで調べてみると、想像を絶するほどの低レベルのマナー違反とそれらに対応する条例がたくさん掲げられており、その事実は、当時の日本国民の、いわゆる民度の低さを残念ながら認めざるを得ないです。(もちろん私は日本人ですよ。そのことが良い悪いとも評価してません、近代の中国を見れば、それは進化の単なる一過程だと思います)

そういうマナーが守れない群衆をいかにコントロールして先進国の仲間入りをするのかが、当時の政府の最重要課題(不平等条約改正の必須条件)だったと思います。そのもっとも近道(ズル)が’見た目’(当お題で該当しているのは識字率)を強制的に良くしてしまうという、人権無視なやりかたをとった(とらざるを得なかった?)だけだと思います。強制的だからこそ爆発的に拡大したんだと思います。強制的だった証拠はありませんが、たとえば現代、中学にすすんだら必ず塾へ、強制されなくてもみんな行きますよね?そんな法律なんて無いのに、ということです(自主性が無いからこそみんなしてこぞって塾に寺子屋に行く)。

その結果識字率自体は驚異的な値であったにもかかわらず、結果的に軍事政権へ進み続ける愚かさに気付けるような俳人は、’戦争を選んだ’という事実から、圧倒的に少なかったんだなぁと捉えております。

投稿者 Armed Love Power : 2010年11月11日 18:36

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