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2010年11月02日
『新たな時代の教育制度の提言にむけてシリーズ2~5.江戸時代の教育の本質』
みなさん、こんにちは。
本来の教育のあり方に迫るシリーズ2~その第5回は、前回に引き続き江戸時代の教育について扱います。今回は、「寺子屋」を中心に江戸時代の教育の特徴を取り出し、その本質に迫ってみようと思います。
<寺子屋の風景>写真はコチラから
■『新たな時代の教育制度の提言にむけてシリーズ2』これまでの記事
1.プロローグ:日本の公教育の変遷と特徴
2.では日本の教育はどうだったのか?日本の公教育のおおまかな変遷
3.藩校から見えてくる教育のあり方
4.近代日本の基盤を作った!?『寺子屋』
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1.寺子屋とは何か?
いわゆる「寺子屋」という言い方は、以外にも江戸時代に一般的ではなかったようです。その名称はまちまちで、たとえば「筆道指南所」「筆道稽古所」「幼筆稽古所」「筆学所」「手習小屋」「入木道指南所」「寺子屋」「寺屋」など、さまざまな名称が使われました。
こうしてみると、そのほとんどが、“手習い”(文字を書くこと、筆道)を教えるという意味が含まれていることに気づきます。つまり、寺子屋とは、文字を稽古する「学習所」、若しくは文字を教える「指南所」だったのです。
寺子屋は、子どもに読み・書き・算数(そろばん)という生活に必要な基礎知識を教育を教えた教育機関であり、寺子屋は江戸時代の初等教育=江戸の小学校に当たると捉えるのは正しくありません。寺子屋とは、文字を覚え、それを美しく書く「わざ」を稽古し、礼法にかなった文章の書き方を稽古する「私塾」であり、現在にも存在する「お稽古塾」の系譜に繋がるもの、と捉えたほうが的確なようです。
したがって、寺子屋への入塾は、ある手習師匠の弟子になることを意味し、それは寺子屋という教育機関に入学するという感覚ではありませんでした。寺子屋での学習と教育は、信頼に足る手習師匠と子ども(寺子)との一対一の師弟関係、つまり個別の人間関係を機軸に成り立っていました。だからこそ、この時代は、就くべき手習師匠を正しく選択することが子どもの学習上決定的に重要だと考えられようです。教育機関としての塾があったのではなく、信頼できる師匠と弟子の、人と人との関係が成り立つ場としての塾(寺子屋)があったのです。
これは、藩校への入学も同様で、現代人の感覚からは公的な機関としての学校に入学すると考えてしまいますが、しかし実際には、藩校の特定の師匠に入門して、その弟子として藩校という教場において学習する、という考え方があったようです。学習の主体である「学ぶ側」が、自ら信頼する師匠を選んで個別に師事し、教育を受けるものだと考えられていたことは、藩校も寺子屋も同様です。
2.子供たちはどのように学んだか?
子供たちは、朝めいめいに登校してくると、思い思いに手習いを始めます。手習うべき課業(手本)はもちろん一人ひとり異なっていました。年齢や学習の進度、家の家業によりその子が必要とする領域や程度、男と女、理解の程度などによって、学習する課業は自ずと異なります。そうした教材の順序や種類、過程などは、師匠によって判断され、それぞれの子にあった教材(手習いの見本)が、師匠によって準備されました。
寺子屋で使われる教材(手習本)は、一般に「往来物」と呼ばれました。寺子屋での子どもたちの学習は、毎日師匠から与えられたその手本を机の左側に置いて、朝からひたすらそれを手習うことをくり返します。具体的には「臨書」すること、すなわち手本に書かかれた文字を模範にして、それと同じように真似て書く作業でした。
師匠は手本を与える時に、手本に書いてある文字の意味も同時に教えました。子供たちはその意味を頭におき、あるいはその読みを口に唱えながら手本を手習い、稽古しました。手習いの学習(稽古)を繰り返すなかで、その文字の読みと意味もおのずから覚えることができたのです。
このように文字を読むことよりも書くこと、しかも美しく上手に書くことを第一に優先した学習でしたが、手習いの手本(「書く」ための手本)の他に、「読む」ための手本もあり、日常的な漢字仮名交じりの文だけでなく、漢字で書かれたものも含まれていました。ここでの読書は、声に出して暗誦ことであり、「素読」学習です。手本を声に出して正確に読み、ひたすら繰り返すことで、その手本の全文を完全に暗唱しました。
3.子供たちは何を学んだか?
手本は、はたいてい「いろは」文字の手習いから始ままりました。書体はひらがなの草書体で、書法(文字の書き方)は普通は「お家流」でした。楷書体の文字は少なくとも始めの段階では学びません。お家流とは、鎌倉時後期に始まる和様書道の代表的な流派で、江戸幕府が公文書の書体に採用したものです。そのため、諸藩でもほとんどがこの書式を採用するようになり、やがて庶民の世界にも圧倒的にこの書式が普及していきました。
<お家流で書かれた文書>写真はコチラから
江戸時代は話し言葉においては地方差は大きもなものでした。いわゆる「お国なまり」といわれる方言が著しかったのです。ところが、文字で書かれた文章の世界では、その書体から文体、文書の形式に至るまで地方差は存在しません。どの地方であれ、「書き言葉」に地方差はなく共通していたのです。この「書き言葉」を使った手紙のやり取りが不自由なく出来ることが、文字学習の標準的な目安でした。
江戸時代の往来物はおおよそ7000種類あるといわれます。上級になると、完成された手紙文の多様なパターンを編集した往来物が選ばれました。年間のおりおりの行事や人生の節目の儀礼にあたっての手紙(例えば、元旦祝状、暑中見舞いなど)の他、「金子借用の文」「離縁状」などの文例も含まれていました。また、東北地方では百姓一揆の際に作成された訴状まで手習いの手本とされていたようです。これらの数多くの文例を手習い、かつ覚えました。
4.師匠の役割
子ども自身の自学自習を原則としていた寺子屋での師匠の役割は次のようなものでした。
● 子ども一人ひとりに適切な手本を書いて与えたり、選択して与えること
● 子どもがそれぞれ手習い中に関を巡回しながら、子供たちの文字の悪いところを矯正したり、あるいは子どもの手をとって一緒に運筆を指導したりすること
● ある程度の時間をかけて手習い稽古した時点で清書を促がし、それを点検したり指導すること
こうしてみると、手習師匠の役割は、子どもの模倣すべき規範(手習いの能筆の「手本」)を示すこと、その規範からの子どもが逸脱した時にそれを指導して修正(矯正)してやることだと分かります。子供たちにとっては師匠とは同化対象だったのです。規範に合致する「わざ」を知らしめること、いいかえれば、積極的に「教え込む」ことではなく、子供自らの学習を尊重すると言う意味において、「教えない」教育法にも繋がるということができます。
以上から江戸時代の教育の特徴を整理してみます。
■江戸時代の学習方法の基本は、主体的な「同化型学習」
これまで見てきたように、寺子屋の教育は、師匠が子供に意図的に「教え込む」ことなく、子供自身が往来物や師匠を模範として、見て・真似ることを繰り返して身につけるという、いわば「同化型学習」と呼べるようなものでした。
この同化型学習の背景には、『学ぶ環境があり、模倣する(=同化する)対象がいれば、子どもは自然に学ぶ』という前提があるのではないかと思います。これは、現在の公教育制度が、基本的に『子供は教えられることによって学ぶ』という前提であること比べると、まったく異なります。現代公教育が『「教え」を中心とする教育』だとすれば、寺子屋は『「学び」を基軸とする学習』だと捉えることができそうです。
また、寺子屋の学習は、現在のような学歴獲得とは無縁であり、相対的な他者との競争も問題になりません。学校制度という強制的に子どもを勉強に追いやる圧力は存在しないにも係わらず、子供たちは主体的に学習に取り組んでいます。この「主体性」も江戸時代の教育の特徴です。私権の獲得という自分発の主体性ではないのならば、それはみんな発の主体性なのかも知れません。
■社会共通言語としての「書き言葉」習得の期待
「話し言葉(方言)」には地方ごとの大きな違いがあり意思疎通に支障をきたすほどであった時代、それを超えてお互いに意思疎通が可能な「書き言葉」、つまり社会共通言語としての観念を身につけることが、寺子屋での学習にもっとも期待されたようです。
<江戸時代の日本地図>写真はコチラから
現在でいえば、国際共通語である英語を学習することに近い感覚かも知れません。おそらく、「書き言葉」を学ぶ子供たちの目には、自集団を超えた「地域」や「全国」という広い社会が広がっていたように思われます。
では、このような学びの場である寺子屋が1800年ごろから急激に増加したのはなぜか?
次回は、その現象の背景となる当時の社会状況や、人々の意識潮流に迫ります。ご期待ください!!
投稿者 sachiare : 2010年11月02日 TweetList
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