| メイン |

2010年04月02日

現行の『婚姻制度』~その中身と成り立ち(9) 資本主義とセックス

市場が拡大し始めた都会では、上流から下層階級まで共認非充足ゆえの代償充足が必要になり、恋愛思想がうまくはまった。
市場の拡大とともに私権圧力が高まっていく中で、実態はほとんどの人が見合い婚に向かった。
恋愛とは頭の中だけの幻想価値(あこがれ)として存在し、それゆえに美化されながら広がって行った。

%E6%81%8B%E6%84%9B%E6%8A%B1%E3%81%8F.jpg
コチラから

これが前回の投稿「日本人はどのように恋愛観念を受容したのか?」です。

この投稿にも出てきた、当時(明治時代)の文化人が繰り広げていた「恋愛論争」の実体は、
プラトニックな恋愛が崇高か?
肉体関係を伴った恋愛が本物か?

現代では小学生にも笑われてしまう?様な論争でした。

ただし、着目すべきは、「恋愛」と言うこれまでに無い観念を受け入れるに当り、やはり最も重要なのは「セックスをどうするのか?」であったということです。
結局この問題には答えを出せずに、以降、性をタブー視し、陰なる物へと押しやることになるのですが・・・・

そういった意味では、市場拡大をもたらした「資本主義」とセックスの因果関係を整理しておく必要があります。
今回は、この大なるテーマに挑んでみます!!

応援お願いします

続きへどうぞ

 にほんブログ村 子育てブログへ

以下引用は「資本主義とセックス」からです。

矢野聡子さんの「夜這いの解体と一夫一婦制の確立」 リンク リンク リンクを読んで、夜這いの解体と近代化に関連して、ちょっと思い出したことがあるので書いておきます。

岸田秀は、ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を題材に、これに接続するかたちで次のように述べています。

――以下、「性的唯幻論序説」より引用――
要するに、西欧近代は性的禁止を強め、さらに女には性欲がないことにして、素人娘や素人女が結婚しないで、またはお金を取らないで気軽に男と寝ないようにした。そして、女をいずれにしても男にとってはお金のかかる清純な乙女と売春婦に二分した。もちろん売春婦は昔からいたが、無料セックスを排除して、セックスの有料化を徹底したのである。その結果、男たちは、性欲を満足させようとすれば、清純な乙女を相手にするにせよ、売春婦を相手にするにせよ、きわめて高くつき、お金をたくさん使わなければならず、そのお金を稼ぐため、常時働いていなければならないという状況に追い込まれたのであった。これは、言うまでもなく、資本主義社会を支える重要な前提条件の一つである。
<中略>
近代人も働くためには、かつての「神のため」に優るとも劣らぬぐらい強い働く動機となる目的が必要ではなかろうか。それが「恋のため」「セックスのため」ということだったのではなかろうか。実際、近代の恋愛は、恋人を理想化し、崇め、恋人を得るために生命をも賭けることがあるくらいで、これが、かつての神への信仰が崇拝対象を入れ替えただけに過ぎないものであることは、ちょっと考えればすぐわかるであろう。だからこそ、かつて神のために働くことができたのと同じように、恋のために働くことができるのである。
――引用ここまで――

「資本主義の前提条件」がはっきりしました。
(この本質を明らかにしてくれている教科書や書物はないかもしれない)
%E6%81%8B%E6%84%9B%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89.bmp
コチラからです

無料セックス排除=セックス有料化の徹底
→女を例外なく「男にとってはお金のかかる清純な乙女」と「売春婦」二分
⇒男はセックスの為にはお金が必要で、そのために常に働く
⇒資本主義社会が成立する

セックスが出来る立場(地位や金)になる為によく働き、お金を手にする。そして、セックスをする為にお金を使う。
資本主義発展に必要不可欠な、生産者と消費者を一気に拡大した事になります。

資本制の生産様式は必然的に大量の労働力を必要とし、また資本主義が成立するにはその労働力が商品化されていることがひとつの条件になります。こうした(奴隷的な)労働者にとって、(少なくとも潜在的には)女の獲得がインセンティブとなっていたというのはおそらく間違いないのではないかと思います。(また私権の獲得と女の獲得が所有意識として不可分に繋がっている点は、統合階級も同じでしょう)

言いかえれば、労働力という商品(もしくは獲得した私権)と、商品化された女の性との交換関係であるといえます。

商品市場の拡大、資本主義の浸透の背景には、性市場の拡大、自由な性の欲求があったことは実現論にも述べられていますが、近代人の追求した「自由な性=私的な性」の実態は、上に引用したとおりの「みじめな性」だったのではないでしょうか。

またそうであるにも関わらず、「恋愛」という観念によって至上のものとされているところは、まさに「恋愛」が近現代における最大の宗教であることを証明しているのではないかと思います。

資本主義社会の発展は「みじめな性」を許容する事から始まったと言って良いかもしれません。

資本主義は、市場の拡大を前提とし、そのために「自由な性」と言うアメをぶら下げた。
このアメは、その後マスメディアが煽り、普及させ、浸透させる。
結果、家制度を始めとした、最後の集団性をも悉く破壊し、バラバラな個人で構成された社会に移行しました。
そして、1960年代後半に、見合い結婚と恋愛結婚の比率が逆転しました。
%E6%81%8B%E6%84%9B%E6%89%8B.jpg
コチラからです

現代では、恋愛結婚は当たり前の婚姻様式ですが、振り返れば、晩婚、離婚、不倫etcととても成立している制度とはとても良い得ません。
新しい婚姻規範が希求されている次代の到来です。
婚姻規範と言うよりは、男女関係どうする?と言う基底的な課題と捉えて、続き追求していきます。

投稿者 gokuu : 2010年04月02日 List   

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2010/04/1032.html/trackback

コメントしてください