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2009年09月01日

これを読めば時代がわかる!最新版~潮流3:’70年、豊かさの実現と充足志向

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 最近、私の働く会社の就職担当が面白い話をしていました。「最近、実家から通える職場を選ぶ学生が増えているんだよね。だから、優秀な学生でも転勤の多い大企業より、地元密着の中小に行くという傾向が強いだよ。」・・・と。

 なるほど、実家(親元)に対して収束している学生が多いということですね。確かに、仕事をバリバリというより、仕事はほどほど、育児にも積極的に参加する子育てパパが増えていたりと、なぜかやたら家庭に収束する流れが目立ちます。

 家庭にはもはや課題がないという一方、なぜかその家庭に収束する潮流は年々増加しているようにも感じてしまう。この流れは一体何なのでしょうか?

 ということで、これを読めば時代が分かるシリーズ第3弾。「’70年、豊かさの実現と充足志向」です。実はこの家庭収束の流れも、大きな時代潮流から生まれた意識だったのです!

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潮流3:’70年、豊かさの実現と充足志向

’70年、工業生産の発展によって、ほぼ貧困が消滅し、豊かさが実現された。この豊かさの実現=生存圧力の弛緩は、生物が経験したことのない全く新たな事態である。但し、人類は1万数千年前、飢餓から解き放たれた採取部族の時代に、一度、これに近い状態を経験している。

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一般に危機状況では、危機を突破しようとする意識的な実現志向が強く生起するが、その実現可能性は小さい。他方、充足状況では、無意識に近い弱い実現志向しか生起しないが、その実現可能性は大きい。
豊かさが実現され、生存圧力が弛緩すると、闘争の実現可能性よりも充足の実現可能性の方が大きいので、人々がそちらに向う結果、闘争よりも充足の方が価値が高くなる。つまり、闘争よりも充足の方が、挑戦よりも安定の方が大切になる。従って、闘争(仕事)志向や挑戦(創造)志向よりも、充足志向や安定志向の方が強くなる。

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また、生存圧力が衰弱し、物的充足が飽和状態に達した状況での新たな(=より大きな)充足可能性は、物的価値ではなく類的価値(人と人との間に生じる欠乏)の充足の中にしかない。そして、類的価値の充足とは、共認充足に他ならない。又、充足志向は安定志向を生み出すが、この安定も相手との共認や規範の共認etc人々の共認によって実現する。従って、生存圧力を脱した人々が志向する充足・安定志向は、必然的に共認収束の大潮流を形成してゆく。
それだけではない。生存圧力が弛緩したことによって私権圧力→私権欠乏も衰弱過程に入ってゆく。つまり、’70年、豊かさの実現(=貧困の消滅)をもって、人々の意識は私権収束から共認収束へと大転換を遂げたのである。従って、資本権力も衰退過程に入り、代わってマスコミの共認権力が第一権力に躍り出る。

この闘争から充足への基底的な価値転換を受けて、’60年安保闘争、’69年全共闘運動と続いた否定発の反体制運動は、’70年以降一気に衰退してゆく。そして、彼らもまた、安定したサラリーマン生活の中へと埋没していった。こうして、’50年代以来の怒れる若者たちは少数派に転落し、わずかにその名残を暴走族やヤンキーとして留めるだけとなる。
これは、豊かさの実現=生存圧力の弛緩に起因する、男原理主導から女原理主導への転換であるとも云える。(その後の性的商品価値の暴騰とそれによる性権力の暴走も、その一時的な先端現象である。)

しかし、それは行動の大転換となって顕在化した肉体的な潜在思念の大転換であり、現実には市場は利益追求のまま、企業は序列制度のままなので、顕在意識は私権収束→私権統合のままである。むしろ、圧力の衰弱によって、’70年代、’80年代は、いったん私権意識が肥大した面(ex自由な性)もある。
加えて、顕在意識は相変わらず「否定と要求」を正当化する近代思想に支配されたままである。従って、肉体的には「否定」は空中分解したにも拘わらず、外圧=私権圧力が衰弱したことによってむしろ抑圧を解かれた不満や要求や主張が肥大し、マスコミ主導で「人権」「同権」etcの架空観念が、いったんは蔓延してゆく。
同様に、私権追求の欠乏が衰弱してゆく以上、「自由」を追求する欠乏も無意味化し、空中分解してゆくが、顕在意識は相変わらず「自由」という観念に支配されたままで、むしろ外圧が衰弱したことによって「自由」という架空観念がいったんは肥大化し蔓延してゆくことになる。(例えば、この頃「自己実現」などという紛い物も跋扈した。)

しかし、その間も、最深部の充足志向は上昇し続け、それに伴って充足発の実現志向も上昇してゆく。そして、それは子供や若者の仲間収束として顕現する。(例えば、私権より何より「仲間第一or仲間絶対」だからこそ、昔からあった「いじめ」が逃げ場のない深刻な問題として浮上したのである。)

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 これを読めば分かるように、学生の間で顕在化している親元収束や、子育てパパの現象にしても、この視点に立てば「充足状況」からくる充足志向や安定志向のひとつの流れと考えられます。

 しかし現実の制度においては、家庭は密室化、閉塞していくのは目に見えています。そのような無圧力空間の家庭に収束することによって、「モンスターペアレント」のような自己中な親達が生まれてくるのではないでしょうか?

 今後求められるのは、より充足と安定の基盤となるような、新たな集団のあり方で、おそらくそれは家庭という枠には捉われないものになりそうです。
 例えば生産体である企業に、家庭以上の安心と充足の基盤があれば、なにも家庭に収束する必要はないということ。

 おそらくそのような、生産と生殖の一体となった集団の再生が求められているように感じるのですがいかがでしょうか?

投稿者 daichi : 2009年09月01日 List   

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コメント

「生存圧力が衰弱⇒充足志向」という流れですが、その充足は個人を原点とした自我充足であったから、どんどん生産を忌避して家庭の密室に籠もっていったのではないでしょうか。

投稿者 HHH : 2009年9月3日 19:20

家庭に代わる充足の場を作り上げられるかどうかが鍵になるということでしょうか。

仲間だけでも足りないとなると、それが企業という場になっていくというのは理解できます。
どんどん、そんな場を増やしていきたいですね☆

投稿者 banana : 2009年9月10日 23:38

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