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2009年06月05日

え?!こんなところまで?!~戦後のアメリカ支配@住まいと家族

こんにちは、さいこうです。『え?!こんなところまで?!~戦後のアメリカ支配』シリーズ第6弾。今日は【住まいと家族】を取上てみます。

今、家族といえば、両親と子どもの3~4人家族、つまり「核家族」を思い浮かべますが、この家族形態というのは、実は戦後に急速に増えた家族形態なのです。それ以前は、おじいちゃん・おばあちゃんも一緒に住むいわゆる大家族でした。

また、今の住まいは「3LDK」「4LDK」などと呼ばれる間取りが多いと思いますが。この「○○DK」と言う呼び名も戦後に登場したものです。

「住まいの変化」と「核家族の増加」とは大きく係っているようです。今日はその変化の背景、住まいが変わって何が変わったのか?に迫って見たいと思います。

<昭和30年代のDK(ダイニング・キッチン)の様子の再現展示>
%E5%BD%93%E6%99%82%E3%81%AE%EF%BC%A4%EF%BC%AB.jpg←懐かしい、、、

この写真は「スコティッシュ・フォールドのひとりごと」さんからお借りしました。

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■アメリカンライフスタイルへの憧れ
戦後、貧しさのどん底にあった日本は、メディアを通じてアメリカの「豊かな社会」を見せるけられます。

その主要な情報源はテレビ。その中でもアメリカンホームドラマの影響は計り知れません。特に「パパはなんでも知っている」「うちのママは世界一」などの「パパ・ママもの」は日本のホームドラマにも影響を与えたようです。

そこには、これまでの生活からは想像もつかないような豊富な家電や豪華な食事、たさしそうな父親と美しい母親と明るい子供の姿、そしてそこに、彼らが住む郊外の芝生の庭がある白い大きな家を見ることが出来ました。

その明るく民主的な夫婦像・家族像は人々にとって憧れとなり、そして、その憧れはアメリカ的な大量消費社会への憧れへとなっていきます。そして、アメリカンホームドラマに登場する白い家は、新しいライフスタイルを実現するには欠かせないものとして、意識されるようになっていたようです。

<パパは何でも知っている(1958年~)>
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・両親と一男二女の五人家族・アンダーソン一家の物語。
・この一家に次々と起こる日常茶飯事的なトラブルを、やさしくて賢明なパパ(ロバート・ヤング)がいかに解決してゆくかというのが毎回のテーマ。
・その善意に満ちた明るくてユーモラスな物語は、ホームドラマの典型として、日本の同種番組に影響を与えたという。

この写真、コメントは「懐かしのテレビ映画特集」さんからお借りしました。

■新しい住まい“団地”の登場
1955年から75年にかけて、核家族化も急速に進みました。この20年間で親族世帯の増加数1000万世帯の内、夫婦と子供からなる世帯(核家族世帯)が700万世帯を占めるまでになっています。この1955年は「日本住宅公団」の設立の年で、いわゆる「団地」が大量に建設され始めた時代です。

住宅公団の建設した賃貸住宅は、当初1万戸ほどでしたが、60年には1万7000戸、65年には2万9000戸となり、71年には4万500戸でピークを迎えます。なんと、20年あまりで総計50万戸近い住宅を建設しています。

55年以後、高度経済成長とともに、東京など都心部に流入する人口が増加。ピークは62年~63年、いわゆる「金の卵」と呼ばれた中卒若者(団塊世代)が集団就職で都会に大量に流入。こうした若者を中心とする膨大な人口流入に対応して、将来結婚して子供を産むことが出来る「住まい」を新たに建設することが早急の課題となり、“団地”が大量建設されたのです。

■新しい家族の新しい生活
当時、建設省が作ろうとした新しい時代の住宅とは次のようなものでした。
 ・個人のプライバシーを重視する
 ・家族の団らんの場をつくる
 ・洋風(椅子)生活を導入する
 ・食事と就寝の場を分離する(食寝分離)
など
これまでほとんどの人たちが経験したことがない、これらの生活を実現する住宅の間取りが「51-C型」と呼ばれる、1951年の公営住宅に採用された標準プランでした。

<51-C型の間取図(51CN(福岡県住宅協会))>

この写真は「ALL-A」さんからお借りしました。

今の私たちには想像する事はむつかしいですが、この間取りの団地生活は当時の人たちの憧れの的だったのです。たかが、「間取り」くらいでと侮ることなかれ、この住宅の登場が、そこに住む人々の生活を一変しました。今ではDK(ダイニングキチン)では誰も驚きませんが、そこでの父親・子供が食事する(食事を待っている)横で母親が料理をしている、というシーンはこれまでの普通の家庭では見ることができない新しいものでした。

2DKは、家族3、4人が生活するには決して広くは無いかもしれないですが、なによりも2DKという空間を「一家族が独占」することが出来たことの影響は大きいものでした。コンクリートの壁と鉄の扉で周りと遮断された住まいの中での生活が始まったのです。“家庭という聖域”の誕生です。

この新しい生活を提供する住まいに、新しい家電が次々と持ち込まれます。三種の神器(電気冷蔵庫・洗濯機・掃除機)の他、自動炊飯器(電気釜)、ミシン、電気コタツ、白黒テレビなどなど。なかでも和室に置かれた白黒テレビは、一家団らんに欠かせないものとなっていきました。

一方、子どもの成長とともに登場してくる『子ども部屋』に見られるように、住まいの中での個室化、家族の中の個人化も同時に進行。プライバシーという考え方が生活の中に浸透していきます。


戦後の「住まい」と「家族」の変化を追いかけてみました。アメリカンホームドラマで見た白い家と同じではないですが、そこにみつけた憧は、戦後~高度成長時代をとして、規模は小さいながらも実現されました。「狭いながらも楽しい我が家」ですね。

『え?!こんなところまで?!~戦後のアメリカ支配@女性の解放~』で紹介されているように、「夫婦とその子供を中心とする「近代的家族制度」が徐々に浸透し始める」のが、戦後しばらくたった昭和30年代なのが注目されます。

戦後すぐにGHQが様々な政策を打ち出しながらなぜ期間がかかったのか?そこにはある世代の登場が必要だった様です。

その世代とは、『え?!こんなところまで?!~戦後のアメリカ支配~@教育制度』で紹介されている、GHQの指導のもとに作られた「(旧)教育基本法」での教育を受け、また、メディアと通じてどっぷりと「アメリカへの憧れ」を刷り込まれてきた世代です。彼らが大人になり、働き始め、結婚するようになり、家族形態は大きく転換していったのです。

 新しい教育制度、アメリカンホームドラマの影響、新しい生活・消費を実現するための器としての政府主導の団地の大量建設。これらの事実を振り返ってみると、「核家族」という新しい家族形態に合わせて2DKの団地が大量に作られたというより、2DKの団地に住むことによって「核家族」になれたのかもしれません。もちろん、それを誰もが待ち望んでいたわけですが。。。

こうしてみると、この新しい「核家族」とは55年から75年にかけて、新しく大量に作られた人工的な家族形態といえそうです。生産の場と分離された消費の場としての核家族の登場は、高度経済成長・市場拡大の原動力となりましたが、70年以降、貧困の消滅と共にその核家族は様々な事件や問題などが起こり始めます。これは、貧困という外圧のもと人工的に作られた核家族の必然、、、なのでしょうか。

参考:
『「家族」と「幸福」の戦後史』三浦展著 講談社現代新書
『「間取り」の世界地図暮らしの知恵としきたり』服部岑生著 青春新書インテリジェンス

投稿者 sachiare : 2009年06月05日 List   

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