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2008年07月20日
明治~昭和初期にかけて、庶民の家庭は成立していたのか?
江戸から明治にかけて、大きな時代転換と共に、家族集団の形も大転換を迎えていきます。
前回まで、その流れを探索していましたが、大きく整理してみました。
明治と言えば「文明開化」と言われるように、大きく国家そのものが市場拡大へと舵を切り始めた時代です。ところが、それは庶民にとって最初から恩恵をもたらす仕組みであったかと言うと、どうも怪しい。
その辺りの時代変遷をもう一度整理してみましょう。
日本の人口推移を見てみると、とても興味深い事実が浮かび上がります。
まず、江戸初期に大きく人口増加が見られます。この背後には、新田開発など、生産基盤の拡大があり、一時期的に多産少死となります。ところが、しばらくして増加率が停滞。これは、農業生産主体の時代において、農村部で養える人口の限界を迎え、都市部へと流入するものの、都市では衛生状態の悪さ等から死亡率が高く、「都市蟻地獄説」と言われるような状況であったようです。
江戸時代、城下町には50~100万人が住まい、その内凡そ12%程度の地域に、都市住人の50%を占める町人が犇めき合っていたようです。人口密度としては、1平方キロメートルあたり6万人。一人辺り16.7㎡ 😯 。とても、みんなが家庭を築けるような状況ではありませんよね。
当時、人口停滞が起こった主要因は、農村部では間引き(堕胎や子返し)、都市部では疫病や衰弱死等により、結果的に国内生産量に見合った人口調整が行われるほど、過酷な状況であったというのが実態の様です。
では、人口グラフに戻って「明治期以降の人口爆発はなんで?」を考えてみましょう。
明治期というのは、凄まじい勢いで国家の生産様式が変わって行きます。大きくは市場開放の流れによって、工業化が一気に進み、貿易が行われ、都市のインフラ整備や医療整備も進んでいきます。その結果、人口は多産少死の時代を迎え、一気に人口増へと向かいました。
しかし、ここでは単純に豊かになったから死ななくなった、と言い切る事はできません。むしろ、市場拡大による貧困圧力は高まり、同時に私権圧力も上昇する中で、死なずとも苦しい庶民の時代が訪れるのです。
市場拡大とは、即ち「何をするにもお金のかかる社会」の誕生です。
農村部では、米を売って稗や粟を食べる暮らし 😥 が始まります。即ち、儲からない農業は生活の支えにはならず、娘や息子を工場へ出稼ぎに出し、なんとか食いつなぐしかない時代。若者達は、都市周辺部の工場街で日雇い労働者のような状況下、ひたすら日本の経済成長を下支えする為だけに働き、そこで得た報酬は税金として搾取されるという生活。働けども、豊かさは得られず 。されど、働かなければ生きては行けない 、というなんとも過酷な時代だったのです。
ちなみに、明治人の庶民の給与を調べてみると、凄まじい格差があった事が解ります。
一例を挙げると、
機織職(女) 1日8.4銭(月1.7円)
農作業の日雇い(男) 1日15.5銭(月3.1円)
大工さん(東京) 1日50銭(月10円)
新聞記者 月俸12~25円
銀行員の初任給 月俸35円
国会議員 年俸800円(月67円)
女工さんの一月の給料は、国会議員の1/40 です。
もちろん、日本の国策としては労働者を育てる事こそが生産力の上昇でもあった訳ですが、一方で人口増加に伴う食糧難の危機なども深刻な状況を迎えていきました。その様な背景から、日本もとうとう侵略戦争→領土の拡大へと踏み切っていった背景が見られます。
明治以降は、大きく文明開化として華やかな時代、そして国民国家としての法制度が整えられていった時代として学校では学びますが、大多数の庶民にとっては生き地獄のような時代であったと考えられます。現代のような家族を持ち、世帯を構える事の出来た人々は一部の上流階級に限られた事であり、多くの庶民は若い内から労働力として搾取され、あるいは戦争に駆り出され、短命のうちに終わっていったというのが、どうやら実態のようです。
まだまだ、明治~昭和初期にかけては、嫁を貰い家を構えるなどと言うのは、庶民にとって夢のような話だったのでしょう。即ち、法治国家としての法整備により戸籍法やら身分法等が作られたとしても、庶民にとっては全く関係の無い世界でしかなかったと言っても良いかもしれません。
この辺りの時代状況を詳しく押えた上で、昭和家族制度の形成過程に足を進めたいと思います。
かわいでした。
投稿者 kawait : 2008年07月20日 TweetList
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