江戸時代の武士の婚姻様式には、現代に近いものが・・・ |
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2008年06月06日
江戸って、面白い!~武士の様子~
写真は ここ から
江戸時代、知れば知るほど、面白い。
前回に引き続き 「剣客商売」道場本館 剣客商売の時代
を引用、参考にさせていただきながら、もう少し、広い視点で、江戸を見ていきたいと思います。
“江戸(御府内)の人口100万人”よく聞くフレーズであるが、その人口比率の内訳は?
と聞かれると、答えられない方が多いと思います。
実は、町民が55万人~65万人。そして、武家が40万人~50万人(推測)。
当時のパリの人口が54万人。ロンドンが50万人なので、まず、人口の多さに驚かされる。
そして、なんと言っても、世界有数の大都市人口に匹敵するだけのお武家さんが江戸にいたことになる。
一部、奉行など治安を守るという職業はあったものの、非生産者(!?)である武家が50万人も集まって何をしていたのだろうか?と疑問を抱く。
町民の男女比率は概ね、男:女=2:1。
明治の初めには、地方出身者が約1/4と今の東京程ではないが、人口の流入が激しかったと言える。
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武家の人口もさるものながら、町民の人口の多さは、
非生産者である武家50万人の食糧(お米は、納税による)や生活必需品・日常品諸々の調達、生産する必要があるのだから、そこには需要があり多くの町民が集まったと考えられる。(詳しくは、政策と合せて見ていく必要がある。ここでは割愛。)
武家に話を戻すと、
江戸中期~末期になると、武士は、経済的に苦しくなり、役職を金で売買されたり・・・・・
(参照: 武士が経済的に苦しいわけは 武士の金融と借金 )
傘張りなどの内職をしている貧乏なお武家さん思い浮かべる。
確かに、貧乏なので内職をせざるを得なかったという一面もあったが、前段の疑問であった、
“お武家さんは何をしていたの?”に繋がるのだが、
一言で言うとお武家さんは “暇(ヒマ)” をしていた。
そして、暇を持て余し、内職をしていた。
○内職
武士は名目上副業は禁止されているのだが俸禄だけでは生活できない者も多く、内職などは黙認されている。米沢藩主上杉鷹山は藩政改革のため藩主自ら模範となり蚕(かいこ)を飼い奥女中に機を織らせ領民に養蚕や製糸、織物を推奨したように藩主でも行っている藩があった。武士は経済的に困窮しているが屋敷は庭付きと案外広く内職をするのに困らない。小普請組の武士は時間を持て余し、御役目のある武士であっても三日から六日に一度という勤務で休みの方が多い役職があり副業の内職が本業で、本職の公務が副業という武士もいたようだ。
内職は傘張りや植木、織物、蝋燭などがある。個人でする場合もあるが同じ役職の同じ組に属する者で構成されている組屋敷での集団内職も行われた。組単位で材料を共同購入し共同納品するため効率がよかった。青山百人町の傘張り、大久保百人町の植木などが有名だった。簡単な屋敷の修理程度は金がないため自分達で済ませられた。
彼らは手に職があるおかげで明治維新で武士の身分を失っても転身にはさほど苦労はしなかった。旗本らの家来も内職をしていることもある。当主と家来が共同で内職している武家もあったかもしれない。
又、
武家の一部が、後の明治政府の官僚という役職に付いて行くのだが、
収支計算が出来ないのは、(借金ばかり増やしていく)今の官僚に引き継がれているのかも。
○放漫経営と人員過剰
収入額から支出額を決めて一年間の予算を立て年の終わりに決済するという考え方がこの時代にはほとんどなく収入に関係なく支出していく放漫経営で財政を破綻させることが多い。当主個人が贅沢をすることもあるが明らかに人員過剰や先祖代々の高禄の者が多すぎることが要因である。
戦国の世は去り外圧は低下し、必要とされなかった“身分=武士”。
実態の伴わない“格式”や“お家の存続”ばかりが、彼らの拠り所であり存在基盤であったかも知れないが、
そこには、現在に見られる、個人に基づくor最小単位である集団=“家族(家庭)”という枠組みは無い。
投稿者 sodan : 2008年06月06日 TweetList
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