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2008年05月25日

江戸時代農民の家族の実態

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家族の歴史シリーズとして、江戸時代の農民家族の実態を調べてみました。

江戸時代の身分制度は士農工商だったということは学校で教えられて誰もが知っていることですが、実は農民と武士が明確に分けられたのは江戸幕府ができる少し前、豊臣秀吉が行った刀狩りと太閤検地だったといわれています。

そして、徳川政権が確立した17世紀初頭から18世紀初頭までの約100年間に日本の人口は約1200万人から3000万人へと急増しており、その原因は農民の家族形態が大きく変化したことによるようです。

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以下、「歴史的に見た日本の人口と家族」という論文から抜粋・引用させてもらいました。

●江戸時代前期に生じた大きな変化とは小農の自立だった。
●平安末期以降の荘園・公領は、名主(みょうしゅ)と呼ばれる有力農民の下に下人等、多くの隷属農民が属する形態をとっていた。室町時代以降、隷属農民は徐々に経済的に自立する動きを見せていたが、この流れを決定的にしたのが16 世紀末に行われた太閤検地だった。
●太閤検地は一地一作人制を原則とし、農地一筆ごとに耕作する農民を確定した。このことは小農の自立を促し、家族を単位として耕作を行う近世農村への道を開いた。
●この傾向は江戸時代に一層強まり、江戸時代初期には、名主的な有力農民の下に、下人等の隷属農民、名子(なご)や被官などと呼ばれる半隷属的小農、半隷属的傍系親族等が大規模な合同家族を形成するという形態が見られたが、時代の進展とともにこれらの下人、名子、傍系親族等は徐々に独立して小農となっていった。
●それに伴いこれら小農は新たな世帯を形成し、大規模な合同家族を中心とした家族形態から比較的小規模な直系家族を中心とした家族形態への転換が起こった。

●新たな世帯の増加とは、「今までは結婚できなかった隷属的農民が結婚して世帯を構えることが可能となった」ということであり、有配偶率の増加と未婚率の減少につながった。
この結果、江戸中期以降、農村部では「皆婚」に近い社会が生まれた。
●このように小農が独立し、結婚して世帯を形成することが可能となったこと、旺盛な新田開発もこれを経済的に裏付けたこと、小家族経営による農耕が農民の勤労意欲を高めたこと、兵農分離や参勤交代による都市人口の増加が農産物需要の増大を招いたこと等が相まって、17 世紀の「人口爆発」を招いたものと推測される。
そして現代において伝統的家族と考えられている直系家族は江戸時代に生まれた。

上記の論文によれば、江戸時代初期に自立し始めた小農の家族とは平均4人程度の世帯で、出生率は比較的低く、離婚率は現代よりは高く、江戸などの都市部では単身者が多く居たようです。
これだけ見ると現代とあまりかわらない感じですが、婚姻の様式は全く違っていたようです。

以下、抜粋引用です。(リンク

●江戸時代の庶民の間ではいまだ村内婚が多かった。
村落内の結婚では、若者組や娘組が婚姻に適した年齢の男女を集わせ、男女の結びつきを取り計らった。祭りの夜など特定の時間を設定したり、「若者宿」と「娘宿」と呼ばれる各宿を訪れあったり、出会いの場を設定したりした。

●若者たちの間で男女の結びつきが執り図られる結果、婚礼の席に当人たちがいない場合がしばしばみられた。すなわち、実質的な男女の結びつきは既に済んでしまっているので、婚礼は両家の人々の確認と挨拶にすぎない。

村内婚と婿入婚
古い形の結婚は<婿入>であった。婚礼を嫁方であげ、以後一定期間婚舎を嫁方におき、昼間は婿の家で共に働くが、夜は嫁の家で泊まった。これは<村内婚>を基盤として成立した。
村外婚と嫁入婚
交通の発達と経済の発展に伴い地域間移動が盛んに行われ、生活圏が拡大してくると、結婚の形態も変化してくる。武家の遠方婚姻が嫁の引移りを早くしたのと同じ事情がはたらき、他方、家族労働を中核として小経営の独立化が進んだ結果、嫁とりの意義が家の経営にとってきわめて重要となった。
こうして、嫁が婿方に引き移る<嫁入婚>が一般的となった

以上のように、小農家族が形成され始めたとはいえ村落内の共同体的つながりは強く、今のような密室家庭などはなかったわけです。現代のように法律で一夫一婦制家族が規定されていたわけでもなく、いわば部落全体が大家族のようなものであったと見た方が正しいといえます。

ところで、江戸時代初期から中期に掛けて新田開発が盛んに行われ、農村は比較的豊かになっていったようです。そして、商品作物を作ったり、織物を作る手工業者であったり、時にはその交易も行うなど、米や野菜などを作るだけの農民という一般的なイメージとはだいぶ違う姿があったようです。
江戸中期になると、商品経済が発展し、生活圏域も広がり、農村での婚姻様式も村外婚へと変化していったものと思われます。

一方、領主から取り立てられる年貢は村に対して要求されるので、それをどのように分担するかは村の共通課題でした。
農業生産は水の管理などの共同作業が不可欠であり、そこにかかる自然外圧は共通の外圧、さらに支配層からかかる私権圧力も村落全体で対応する共通課題でした。
小農家族が形成されていたとはいえ、実態的な家族の姿は現代と大きく違うものであったといえます。

byわっと

投稿者 wyama : 2008年05月25日 List   

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コメント

部落外から嫁を取る婚姻様式に移っても

>部落全体が大家族

として機能した基盤は何だったのでしょうか?

投稿者 とね吉 : 2008年5月27日 16:56

婚姻様式が村外婚へと移行していったとは言え、若者たちの集団は存続し、子どもの成育も村落の人々の共認に委ねられていた、
(地方によっては、互いに婚姻関係を結ぶ村落があるていど決まっていたところもあるようです)

生産場面にかかる自然外圧や共同作業における共認圧力、領主からの私権外圧も村落全体にかかり、そこでの共認に委ねられていた、

そのため、現代のような聖域化した家族は存在しえず、村落全体の共認の下で人々は生きていた、

といったあたりが基盤だと考えます。

投稿者 わっと : 2008年5月29日 13:43

この場所すごくいいですねw
どこですか?

投稿者 美威 : 2010年3月20日 19:43

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