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2008年01月21日

学校ってどうなってるの?44 明治時代の家族制度・・・背後に土地私有制

こんばんは~ bunchanです☆

http://blog.katei-x.net/blog/2007/12/000418.html で、江戸時代においては武士に対しては男子相続(ゆえに父系制度)を制度化しましたが、一般庶民の婚姻形態は野放し状態(母系制のまま)と紹介しました。

このことから考えると、制度の世界の男女関係は財産の相続制度と連動して変るようです。
今回は明治時代は江戸時代からどのように変わっていったのかを追っかけてみたいと思います

まず、ウィキペディア より、相続制の変遷について

日本では長期にわたって長子相続制が続いた。現在の民法では均分相続が規定されているにもかかわらず、長男が親の土地の全てを相続するというような慣習は最近でも続いている。

●明治以前
明治以前の相続はさまざまであった。統一された相続法というものはなく、たびたびお家騒動が起こった。

●明治時代
華族や士族には長男相続制が規定され、その地位も長子によって世襲された。[1]さらに、平民にも長子相続制が規定された。[2]旧法では長子相続制が徹底されていた。嫡出子の長男が優先されて相続したのである。

●現在
昭和22年に民法が改正されて、家督相続が廃止された。さらに、長子相続制も廃止されて、子に平等に相続を行うことが規定された。

明治以前のお家騒動というのは、主に武家のことだと思われます。じゃあ、一般庶民は?? 土地の私有の概念について、衝撃の事実が・・・・・・

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「地価の誕生」 より引用します。 
 

もともと、江戸時代は土地の私有という概念はありませんでした。田畑永代売買禁止令なんてのもありましたが、これは農民を土地に縛り付けるもので、個人の財産権とかいう意味はありませんでした。
 土地は財産であるという概念が発生したのは、やっぱり明治になってからです。明治2年(1869)7月に大蔵省が設立され、明治4年には租税寮という大蔵省の内局ができました。この両者が必死になって考えた税金の仕組みが、明治6年7月の地租改正です。
●寄生地主の登場
 このように、土地の売買が自由にできるようになると、貧乏人は結局土地を売り払い、わずかな大地主と、搾取される大多数の小作人という関係が強固になってしまいます。地代の60%近くを収奪される搾取ぶりは、寄生地主制と言われるほどです。

なんとなんと、明治時代になってはじめて一般庶民に土地を私有する概念がでてきたのですね~
江戸時代は土地は藩のもの。農民は藩主から土地をかりて耕し、ムラ全体で年貢を納めていたので当然自分の財産という意識はありませんでした。農民は個人個人の集まりではなく、共同体という集団で生きていたのです。
でも、なんで土地私有?? 
「家」という概念と関係がありそうです。

家族制度の変遷と教育  からの引用です。

政府は中央集権体制の確立をはかるため、殖産国民皆学を推し進めるとともに、戸籍法の制定(明治4年)により家族を政府の四民平等政策のもとでとらえ、規制しようとしたのである。
この法律により、厳格に秩序づけられた親族集団が「戸」とか「家」とかの語で表現されるようになった。戸籍法は明治政府が戸籍によって家族倫理=家族内秩序を維持・確保しようとしたことを示すものであった。それは明治政府の四民平等政策に照応した均質化、規格化された「家」として「国民一般」に共通のものとして、現実の家族に強制されたのである。すなわち、維新政府は戸籍法によって「家」の範囲を規定し、戸主と家族員との関係を定め、「家」を通じて「臣民一般」=現実の家族を把握・統制する方法を設定したのである。現実の家族生活の動態を如実に現そうとした戸籍制度は、戸籍に入れない妻や用紙、戸籍を分割しないままで行われた分家などによって破綻をきたしたが、その結果、現実の家族制度のほかに観念的な法律上の「家」が作り出されることになった。これが明治政府に規定される「家」制度である。
 戸籍法により「家」は統治機構の最小単位として扱われることになり、明治政府の意図した中央集権国家体制は、政府を頂点とし府県・区長・戸長・戸主という組織をもつことになる。ここにおいて家父長は戸主となり、政府の手足になっていくのである。

「村落共同体」から「家」という単位へ
明治政府が確立したかった中央集権体制とは、日本の頂点には天皇をはじめとする政府が頂点にあり、その最末端に家の戸主があるというイメージですね。古来から続いてきた一般民衆への統治スタイルが根本的に変更されているということになります。

「家」という概念は、ヨーロッパの私権社会をムリヤリ真似しようとしてもともとあった自治組織をぶち壊してかわりにつくった概念であるように思えてきました。 :x

投稿者 bunchan : 2008年01月21日 List   

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コメント

幕藩体制を崩壊させた明治政府は、年貢という物納から貨幣による納税へ、又納める単位も「村請」から、「世帯主」制へ一気に変えてしまったようですね。

しかも貨幣による税収の為には、貨幣自身が必要ということになって、国立銀行制→中央銀行設立へと動き、結果としてこれまでの藩札の他、国立銀行ごとの数種類の新貨幣や外国紙幣なども出回る状況になり、巷では両替商が大いに活躍する結果となったようです。

この頃三井、三菱などの両替商、商社の台頭、天皇家をも巻き込む商業、産業の隆盛期を迎え、いよいよ朝鮮半島を巡る日清戦争へと繋がっていくようです。

明治政府は一体どんな国にしたかったのでしょうかねー。

投稿者 さいゆー : 2008年1月21日 21:28

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