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2007年08月26日
日本の村落共同体規範
樋口清之~『梅干と日本刀』という著書にある、日本古来の規範についての一文が紹介されていました。
近代文学ガイドより
日本のもっとも悪い風習だといわれるものに、村八分(むらはちぶ)というのがある。
その村に、著(いちじる)しい被害を及ぼすようなことをした村人を、絶縁して孤立させることをいうが、これは世界の人間関係の風習の中で、最悪のもののようにいわれているが、それは一方的な解釈である。
村八分という文字の示すとおり、この断絶は《八分》であって《十分(じゅうぶ)(出産・成人・結婚・葬式・法事・病気・火事・水害・旅立ち・普請(ふしん))》ではないことを、私たちは見逃している。
《十分》でなく《八分》であるということは、八分は断絶するが、二分の交際は残すという意味なのだ。その二分は《葬式》と《火事》である。
絶縁はしていても、葬式、すなわち、その家族たちの中の誰かが死んだときは、村中の人たちは葬式を手伝って悲しみを共にする。
火事に遭(あ)ったときも、みんなで手を貸して手伝う。それ以外の、たとえば結婚式とか成人式といった、喜びごとには手を貸さないという意味である。
つまり、絶縁はしても、悲しい出来事だけは、分かち合おうというのが村八分なのだ。これは、日本人の義理人情の発想とも深い関係があろうが、こんな心やさしい懲罰(ちょうばつ)風習は、私は世界に類をみないと思う。
村八分を村落共同体の最大の懲罰とした、日本人の人間関係の発想の根底には、結局、《人間は助け合っていかないと生きてはいけない》という社会共同意識が、最低の基準としてあったのだ。(村八分を非人道の極というのは間違い)
ブログ「知られざる人類婚姻史と共同体社会」
の中でも、「人類500万年に亙る共同体社会」というカテゴリーにていくつかの共同体社会の在り様が紹介されています。
当ブログにて問題として取り上げている密室家庭では、このような共同体的規範は完全に失われてしまったと考えても良いでしょう。
その結果として、社会的な圧力の働かなくなった家庭から出現したのが、
「増殖するモンスターペアレント」といった事例に該当するのではないでしょうか?
村八分というのは、完全に縁を切るようなシステムでは無く、常にムラの秩序=みんなの充足を守る為に、自己中な村人or家族に対して徹底的に規範圧力をかけ続ける=更生期待が常に掛けられていた、という事なのだと想います。
我々の身近な社会の中には、常に上記引用にあるような、
《人間は助け合っていかないと生きてはいけない》という社会共同意識
も根強く残ってはいるものの、そのような意識が個々バラバラに存在するだけでは、期待圧力は形成されない、ということなのだと想います。
このような規範がしっかりと形成されてきた背景には、生産課題をみなで担い、支え合い、強烈な自然外圧を乗り越えてきた、というような共同体としての充足体験があり、その充足体験の結晶が積み重なって規範として定着していったのだと考えられます。
生殖と生産という生命体にとっての最大の課題が、職場と家庭という形で分断されたままであっては、上記のような期待圧力の働く場はいつまでも再生されないのかもしれません。
過去に戻る、という事ではなく、規範の形成される構造を学び、これからの社会を協働という形で支えていく認識を持つ仲間のネットワーク形成が、一つの突破口となる事を期待して、当ブログからの発信を続けたいと想います。
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かわいでした。
投稿者 kawait : 2007年08月26日 TweetList
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