外遊びと脳回路10~手は第2の脳、足は第2の心臓 |
メイン
2020年10月15日
「誰だってタダでいくらでも学べる」
コロナ禍を経て学費返還運動が起こっています。
そもそもタダでいくらでも学べるし、学校を経るよりもやりたいことに真っ直ぐ向かうほうがよほど近道ということに誰もが気づき始めたのではないでしょうか。
学校とは? を今一度問い直す人がますます増えていきそうです。
https://toyokeizai.net/articles/-/380775より引用します。
若者たちよ、未来を恐れず、過去に執着せず、「いま」を生きろ――。コロナ後の学びを変える47の行動スキルを収めた堀江貴文氏の新著『将来の夢なんか、いま叶えろ。 ―堀江式・実践型教育革命―』から一部を抜粋・再構成し、堀江氏のメッセージをお届けします。
◆協調性の高さ=優等生の時代は終わった
現在の学校教育が確立した系譜をたどると、戦争に行きつく。優秀な兵隊あるいは労働者をいかに効率よく生産するかという、明治維新後の富国強兵思想から設計されたものだ。
一応、学校教育は国民全員が文化的な生活を過ごせる知識と教養を分け隔てなく学べる、基本的人権にのっとったシステムとされている。しかしそれはしょせん、表向きの理由にすぎない。実際は黙って体制側の言うことを聞き続ける、「我慢の秀才」たちを育成するのが狙いだ。そこで重要視されるのが協調性。周囲の空気を読み、全体からはみ出さず、個性を平均に押しこめて黙々と勉強する人が、テストでも内申点でも「優等生」とみなされた。
言われたことを言われたとおりにこなす能力は、それはそれで1つの価値を持つので、全否定すべきものではない。だが、協調性の高さイコール「優等生」であるという時代は、とっくに終わったのだ。
テクノロジーの急速な進化で、個人の人生のあり方、生き残り方の最適解が、20年ほど前とはまるで変わってしまった。協調性は、学校・会社・家族など日本社会のあらゆる組織のなかで重宝される「スキル」だったが、スマホを介したシェアリングエコノミーの発達で、どこかの組織に所属しなくても不便なく暮らしていけるようになった。
協調性を人々に染みこませるための学校教育は、もはや何の意味もなくなった。むしろシェアリングを使いこなすマインドの育成の邪魔にさえなっている。「行きたければ行けばいいけれど、いまの学校教育を受け続けるのは、もう弊害しかないんじゃない?」というのが僕の偽らざる考えだ。
学校教育の大きな弊害は、コミュニティーの多様性を損ねることだ。学校に通っていれば、友だちはできるかもしれない。でも同世代としかいないために、知識も考え方も、似たり寄ったりになる。知り合える大人はせいぜい、先生くらいだ。10代半ばで25歳のエンジニアや、30歳の鮨職人、50歳の俳優など、多様な人々と交わる機会があってもいい。その環境こそ、現代型の本当の学びになりえるはずだ。
学生の本分は座学で、さまざまな経験を持つ大人との交流はもっと後でいい、という意見もあるだろう。果たしてそうだろうか? 座学だけで、10代の若者にテクノロジーの進化が加速していく令和以降の社会を生き抜いていく能力が備わるとは、僕には思えない。多様性を肌で感じる体験のほうが、若者には大事ではないか。
これからの学びは、「オープンイノベーション」が大前提になる。僕はオープンイノベーションを基盤とした世界の歩き方を、君に伝えたい。
オープンイノベーションとは、自社だけでなく、他社や大学、地方自治体、社会起業家などの異業種、異分野が持つ技術、アイデア、サービス、ノウハウ、データなどを組み合わせ、革新的なビジネスモデルや研究成果、製品・サービス開発、組織改革、地域活性化といった変革につなげる、イノベーションの方法論のことだ。
◆行動力さえあれば誰でも挑戦できる
いまや、ネット上に持ちこまれる最新の情報にアクセスするスキルさえあれば、自分が知りたいことを際限なく探究することができる。
オープンイノベーションが実現させたのは、「チャレンジしよう」という行動力さえあれば、誰もが平等に実践する機会を持てるようになった世界だ。物理的な制約条件はなくなりつつある。そんな時代に毎日早起きして、重い気分を抱えながら、昭和に建てられたような古い校舎に通う必要はない。
オープンイノベーションは、あらゆるリソースを無償で使える世界なのだ。誰だって、他人がつくった最新のツールやデータを利用し、次々と新しいアイデアに進化させ、世界に発信していける。発信すればフィードバックが集まり、アイデアはさらにブラッシュアップされていくのだ。
そうやって高速で行動、検証、改善を続けて進化していく者と、教科書などのマニュアルをなぞることだけを繰り返している者とではどちらが人間として進歩するか。考えるまでもないだろう。
オープンイノベーションに参加するうえでただ1つのストッパーは、「自分にはできない」という決めつけだ。その原因になっているのは、義務教育における「これを学ぶべきだ」「これをしてはいけない」という、出る杭を打つルールや規制。そして個性を均一化することで植えつけられた自己抑制の悪習慣だと、僕は思う。
そんな鎖は引きちぎれ! 自ら学び、アイデアを行動に移すことができる人材が、もっと増えるといい。
もう学校に通い、先生から教わるという既存のシステムにはこだわらなくていいのだ。自分の興味関心のおもむくまま世界中から情報を集め、好き勝手にガンガン独学して周りの力を借りながら実践していくのが当たり前だ。
2020年はコロナ禍によって、学校に行けない学生たちが日本社会にあふれた。自宅学習になって、みんな気づいたのではないだろうか? 学校へ行かなくても、学びたい気持は、自力でじゅうぶん満たせるのだ。
思いを行動に移して、オープンイノベーションの世界を、使い尽くしていこう。
◆いまこそ江戸時代の寺子屋に学べ
日本人は、先進国の中でも金融(お金の貸し借り)に対するリテラシー(理解力)が低いと言われている。金融学の専門家がSNSなどで発信しているけれど、有効活用できている人はごくわずかだろう。大卒でも、多くの人が直接金融と間接金融の仕組みを理解できていないし、投資と投機の違いすらよくわかっていないと思う。
歴史をひもとくと、意外な事実がわかる。江戸時代まで、日本人は世界有数の金融リテラシーを誇っていた。そのため貨幣経済にいち早く移行でき、計算の複雑な年貢システムにも対応できた。町民同士での商取引に、会計の基礎を採り入れた。利息の複利計算など、庶民が数学の理解力に長けていた。そんな能力を養っていたのは、寺子屋教育だ。
江戸時代の末になると、全国で1万5000以上もの寺子屋が運営されていたという。この寺子屋が日本人の高い識字率を支え、数学や語学など、多分野の理解力を養った。寺子屋を経て、明治以降に洋学者や科学者など幅広い分野で活躍した人は少なくない。
寺子屋の特徴は、いまの学校とは大きく違い、基本的に個別教育だったことだ。師匠と呼ばれる先生が、寺子屋に学びにやって来た子どもたち、1人ひとりの目標や希望を聞きとり、それに合ったカリキュラムを提供していたという。つまり、現代のアクティブラーニングの原型となる指導法で、子どもたちを導いていたのだ。
寺子屋はもともと、武家の子息の通う学問所に行けない、庶民の子どものための私設教育機関だった。起源は諸説あるが、中世の寺院教育が母体になっていると考えられる。江戸時代、日本では儒学や朱子学といった中国伝来の学問が根づいていく過程で、身分に関係なく、多くの人たちが「学ぶ」ことの重要性を理解するようになった。近代につながる教育意識の高まりが、寺子屋の創設・増加にも関係していたのだろう。
寺子屋に通学の強制力はないし、辞めたければいつでも辞められた。逆に言えば、学びたくなったら、いつでも戻って来られる場所だったということだ。
◆生徒の個性に対応した柔軟な指導システムだった
勉強しているものとは違う科目に興味が出たら、そちらも自由に教えてもらうことができた。身分が固定されていて、受験というシステムもなかったこともあり、ゆるゆると言えばそうだが、生徒の個性に対応した、柔軟な指導システムだったと思う。
日本では、教育改革が叫ばれて久しい。金融リテラシーなど、グローバル社会で求められる根本的な知識の理解力の低下に、政府も危機感を抱いているのだろう。寺子屋のように、私塾スタイルの教育機関の認可は、もっと進められていい。子どもが好きなときに通い、充分な学びを得られる教育制度の整備を願っている。
日本では、志望する進学先への偏差値が学校の授業で足りない子どもは、ほぼ例外なく塾に通う。それも否定はしないが、僕は動画学習を奨めたい。
僕がたびたび著書などで述べているように、YouTubeには教育系の学習動画が無料で公開されている。学校の先生よりはるかに教え方が上手いプロの先生たちが、ハイレベルな授業を提供してくれているのだ。スマホで、無料で、いつでも好きなときに必要な教科を学べる。本当に恵まれた時代だ。
勉強だけではない。魚のさばき方や美味しい料理のつくり方、服の着こなしテクニックや映えるメイクの方法も、動画で学べる。実践的な技術を会得するのに、指導者や、どこかの稽古場に修業に出向く必要はもうないのだ。
プロサッカー選手の本田圭佑さんが、プロアスリートやビジネスマンのマインド指導を行うオンラインサービス「NowDo」を立ち上げた。世界レベルの指導者が動画で直接若者たちを教えてくれるのだから、一般の指導者の出る幕は、もうないだろう。
最近では、医師による外科手術の先進技術を収めた動画が多数公開されていたりする。医療の進んでいない国の医師は、その動画で技術を学んでいるのだ。
◆プロとアマチュアの境目はもはやない
無料動画の充実で、素人革命は加速する。プロとアマチュアの境目は、もはやなくなった。実際に動き出し、独学で技術を身につけた人が稼ぐ仕事に就ける。2019年、プロ野球の独立リーグ「ルートインBCリーグ」の関東地区のトライアウトで、当時大学3年生だった杉浦健二郎選手が合格した。彼のポジションはピッチャー。だが高校、大学とも野球部でプレーしていないという。
杉浦選手は、スマホで見るトレーニング動画で野球を学んだそうだ。ピッチングの技術や肉体鍛錬を独学で続け、プロと同レベルの投手能力を身につけた彼のような素人革命の突破者は、スマホブロードバンド時代には当たり前のように続出するだろう。
このような環境にあって必要なものは、1にも2にも実行力につきる。身につけたものを即座にアウトプットする意欲が、成功を引き寄せるのだ。一定の時間をかけた勉強や訓練は、何においても必要かもしれない。だが、蓄積されたスキルではなく、やりたいように動きだし、遊びだったものをビジネスに変えていく個人のセンスが突き抜けた結果を生みだす。そんな時代に、アップデートできていない従来の学校に通い続ける意味は、果たしてあるだろうか?
投稿者 hoiku : 2020年10月15日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2020/10/7776.html/trackback