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2018年09月14日
子供は自然そのもの~自然の声を聞いて「手入れ」する、「世話」をするのが子育ての原点。
もう保育園に行く時間なのにぐずぐずしてなかなか着替えない。思わず「早く!」といってしまいますが全く意に介さず。
「宿題やった?」ときいても返事もなく、いつもだらだら。いくら言っても聞かない子どもにいつもイライラ。
子育ては思い通りにいかないことだらけ。
そんな時は子育ての原点に立ち返ってみるのもいいかもしれません。
以下(https://mama-kodomo.com/post-528/-/528/)より引用します。
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●養老孟司先生が教えてくれた「子どもは自然そのもの」
「子どもは自然そのもの」という養老孟司先生は次のようにいっています。
『今の社会で子どもが問題になってくるとすれば、それは今の人、つまり大人が自然の取り扱い方というものを忘れてしまった、もしくは慣れていないということになると思うのです。
子どもの問題の根っこはまさにそこにあると思っているんです。
〈引用文献:『養老孟司 太田光 人生の疑問に答えます』 養老孟司政策委員会・編 NHK出版〉』
養老先生は、今の人たちは自然にふれるよりは、
冷暖房完備のなかでパソコンを見ているほうが安心だと思っているといいます。
なぜなら、そういう世界には人間の作らなかったものは基本的に現れてこないからだというのです。
『ところが、子どもは自然ですから、よく考えると何を起こすかわからないものなのです。自然の中には、地震、台風、火山噴火、大雨、洪水など人には予想もつかないことが起こります。これと同様、子どもも大人には予想がつかない行動を起こします。〈引用文献:同上〉』
さらに養老先生は、今の人たちは昔に比べて自分たちが予想できないことに強い不安を感じており、「自然が人間の予想もつかないことを起こすことを、それが当たり前のことだと思っていないところがある。だから、子どもを何とか管理しようとしてしまう」
のだといいます。
「子どもは自然のもの」と考えれば、先の問題「子どもがお遊戯をしない」のも「授業中立ち上がってしまう」のも「のほほんとしている」のも「自然そのもの」ですね。
「ママだって子どもだ」?
このサイト名は、子どもだった心を忘れたくないなと思い、つけたものです。大人になると、世代の垢がつく。それは素晴らしいことでもあり、「自然」から遠ざかっていく切なさでもあって、矛盾しているようですが、大人になっても「自然そのもの」のかけらを大事に握りしめていたいと思ったからです。
では、どのような子育てが「自然そのものの子ども」を幸せにするのでしょうか。
●養老先生が教えてくれた「どのような子育てが子どもを幸せにするか」
養老先生は、ご自分の意見として教育は「根本的に人を変えること」といっています。
『子どもは自然と同じものといいましたが、人が自然を思いどおりにできないのと同様で、子どもも思いどおりにはなりません。しかし、それをある一定の方向に向けてあげることが教育だと思っています。〈引用文献:同上〉』
養老先生は、「子どもを思いどおりに動かすなんてできない」といいます。それは、「馬を水のそばまで連れていっても、水を飲ませられないのと同じこと」だと。
『重要なのは、上手に何かが起こるようにしてやるということです。こうしたことを日本では「手入れ」といってきたと僕は思っています。本来「手入れ」をする相手というのは、自然です。山や川などの自然環境です。〈引用文献:同上〉』
田んぼをつくるなら、まずは水を引き、畦(あぜ)を作る。稲を植えると雑草が生えたり、イナゴが発生したりといろんなことが起こる。これらに対応する「手入れ」をしなくては稲が育たないと養老先生。また、肥料を与えることも必要。
しかし、たくさん収穫したいからたくさん肥料をやればいいのではなく、たくさん収穫したいなら、稲のルールを理解することが必要だといいます。
どうすればいいか?
『毎日、相手を見ながらいろんなことをして、その反応を見ながら、こちらの対応も変えることが必要になります。それこそが「手入れ」の基本なのです。つまり、「手入れ」の根本は、相手を認めるということ、そして、毎日やることなのです。〈引用文献:同上〉』
「手入れ」とは、相手を認めること、毎日やることなのですね。
そして。
ここから、目からウロコです!
『今の常識では、子どもにはそれぞれ個性があり、その個性は(略)一生変わらないものだと思い込んでいる。しかも、変わらないものこそが個性であって、その子どもの価値だといってるんですからね。〈引用文献:同上〉』
すみません。
確かに個性って、血液型が変わらないのと同じように一生変わらないものだと思っていました。
『子どもは初めから人とは違う個性を持って生まれてきて、それがその子の本来の価値とするのであれば、そもそも教育なんて必要がなくなると思うんですよ。その子の根本的な価値にはふれることはできないのですから。その結果、教育はどうなったかというと、その子に飾りをつける作業になったんです。
それを端的に表現しているのが「学歴をつける」という言葉です。〈引用文献:同上〉』
大多数の親の頭には「高学歴=幸せへの近道」の従来の構図がそのままに、少しでも選択肢の幅を広げてあげたい、安定した暮らしを手に入れてほしい、
と「学歴をつける」ことを考えます。
では、「学歴をつける」という飾りに匹敵するもの(同じような価値)って、いったい何でしょうか。
●養老孟子先生が教えてくれた「厳しい経験をすること」
『生きていくということは厳しいことであって、そういう厳しさに耐えられないで生きていこうということ自体がおかしなことなんですよ。一方、子どもにとっては厳しいからといって大変かというと、そうではありません。
学校で厳しかった先生の話は懐かしいし、部活動で血へどを吐くまで練習したことは懐かしい思い出なはずです。自分にその体力があって我慢ができる時代には、結構、厳しい経験をするほうが実は面白いんですよ。〈引用文献:同上〉』
厳しい経験をする?人間の、生き物の原点に立ち返るようで、きりりと身が引き締まる思いがしますね。子育ての原点は、生き物の原点だったのですね。
まずは、靴をはき、家のまわり10キロくらいを走るところから始めますか。
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子どもは最も自然に近い存在。自然だと思えば、人の思い通りにすることなど元々無理な話です。
でもお百姓さんが毎日畑の様子を見ては作物の声を聞き、水遣りをしたり雑草を取り除いたり、元気に育つよう環境を整えてあげることはできるはず。
無理して管理しようとせず、手を入れる、世話をする、そんな感覚で接することが「自然の子供」を活き活きと育んでいく秘訣なのではないでしょうか。
投稿者 hoiku : 2018年09月14日 TweetList
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