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2008年09月11日
江戸時代、パパの威厳は有ったのか?
これまで核家族に至る日本の家族の歴史を分析してきましたが、どうも女(嫁・主婦・母・・・・)中心に進んできた嫌いが有ります。
そこで、今回から数回に渡り、男から見た(男の意識)家族を分析していってみたと考えています。
写真はコチラから
まずは、江戸時代
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<a href="http://ww w.jinruisi.net/blog/2007/07/000220.html”>知られざる人類婚姻史と共同体社会より
また江戸時代の庶民の結婚生活は、女性の側の持参金や女房の働きが重要な柱になっていた。共稼ぎがふつうで、それを「銘々稼ぎ」「銘々過ぎ」といった。共同で家計を支えるという感覚ではなく。「個々それぞれ稼ぐ」という意味の言葉である。江戸時代は何についても、「個々で」という考えかたが強い時代だったのである。ほとんどの女性が働いており、専業主婦というものもなかった。江戸時代で働かないですんだ女性は、ごくわずかな公家と武家の女性だけだった。
確かにこの時代、江戸などの都市部の町人は、日雇いなどの定職を持たない事が多く、ある意味元祖フリーター社会だった。
そんな中で、「男が家族を養う」的な力(=経済力)を持つ事は極めて難しかったはずで、夫婦共働きは当然だったのでしょう。
共働きとはいえ、フリーターで大丈夫か?
と疑問も浮かんできますが、そこは長屋と言う共同体的な生活空間が支えていた。
<長屋の暮らし>
江戸時代の9尺2間の裏長屋(間口2.7m程度、奥行3.6m程度)、つまり今でいう6畳が1軒分のスペースでの暮らしは、現代の日本の住まいからすれば、極貧の暮らしに見えるかもしれません。しかし、そうした長屋暮らしには、現代のコレクティブハウスにも匹敵する「共に暮らす」生活がありました。医療が今ほど発達していなかった当時は、親と死に別れた子供や、子供に先立たれた老人も少なくなかったと思われますが、誰か彼かが世話をし、納まるべきところに納まっていたようです。
長屋という大家族ともいえる環境のおかげで、子供もひとり暮らしの老人も大勢に守られて暮らしていけたのかもしれません。長屋という家族に似た共同体が、実にさまざまな機能を果たしていたと言えます。「大家といえば親も同然、店子は子も同然」という言葉があるように、経験豊かな大人が常に若年層の相談に乗っていました。味噌や米を貸し借りし、親の帰りが遅ければ、小さな子供はどこかの家庭でご飯を食べさせてもらい、家族が薬代のために日中働いていてひとり残される病人がいれば、近所の誰かが気にして様子を見てくれ、夫婦喧嘩には近所の仲裁が入ったり…。長屋の生活は、貧しくとも案外幸せな暮らしにも思えます。
こんな中で、父親の権威など成立するわけも無く、又、必要でもなかった。
一方、農村ではどうであったか?
農業では、男も女も、親も子も無く、やれる事は皆がやった筈である。
確かに、力作業は男が必要ではあるが、草取りや稲刈り、女手も無くてはならない、純然たる共同作業だったはずで、家族みんなで頑張っていた。
但し、村の寄り合いなどでは、親父が集まり村の重要な決め事を徹底的に話し合う。
ここではやはり、男の頭脳を集める必要があったのであろう。
寄り合いの様子はコチラ「知られざる人類婚姻史と共同体社会:村の寄り合いとはどういうものだったのか?」が詳しい
江戸時代はこんな感じで、緩やかな父親の威厳があった。
威厳と言うよりは、「男の役割を期待されていた」と考えるのが正解のようです。
確かに、武家、公家等の、家柄や身分で食っている階級では、父権、主人は絶対的であったでしょうが、これはほんの一握りのパパでしかない。
こんなパパ達が、明治維新を経てどのような存在となっていくのか?
やがては現在の、子育てパパまで、分析していきます。
続きをお楽しみに。
投稿者 gokuu : 2008年09月11日 TweetList
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