なぜ、子供達は飛び降り、首を吊り、投身して己の命を奪うのか? |
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2007年02月23日
我が子をアイドルに仕立て上げる芸能リポーターパパとママ
皆さん、最近の子供達の運動会やお遊戯会って、必ず撮影専用席 が設けられているってご存知ですか?
先日見に行ったお遊戯会も、会場の最前列2列分が空けられていました。最初は、来賓席かと思っていたんですが、一向にそれらしき方々は現れない。と思ったら、「お子様の出番になったら撮影用に最前列をご使用下さい。」とのアナウンスが。
なるほど運営側も色々と考慮してるんだなぁ~、と始めのうちは関心していたんですが、いざ会が始まると、カメラ 片手に撮影席に走り寄る大人達の姿にしばし唖然。
ん?この光景、どこかで見たことあるような???
そう!テレビ の記者会見の風景そのものなんです 。
芸能リポーターのごとく駆け寄る親達のカメラのアングルは、ばっちり我が子のみに固定され、演目ごとにリポーターが綺麗に入れ替わっては、同じ光景を繰り返す。
ご近所のYさんの幼稚園では、お遊戯会は2サイクルあって、1回目は撮影禁止 で観覧し、そしてわざわざ撮影用 にもう一回演技を行うんだとか 🙄 !
こりゃ~いったい、何のための会なんだ?
びっくりクリック!
我が子命の親たちが、我が子のみを必死で撮影する姿に、とてつもなく異様な空気を感じませんか?
子供達にとって、運動会やお遊戯会というのは、集団生活における成長過程を示す契機であり、いかにクラスのみんなと一体感を持って課題に取り組めたかどうかが、充足の深さ を左右するものとなります。
また、そこでの想い出 はみんなとの充足体験 😀 として深く刻まれ、仲間達との成功体験 は必ず次の大きな課題(ステップ)への取り組みに対する意欲へと昇華して行きます。
ところが、我が子のみを映した記録、我が子のみに興味を持つ親の意識下に囲い込まれたまま育てばどーなるでしょう?
そう。自己中の完成です。
みんなと上手く出来たかどうか?は、親の評価に値しない。自分がどうだったか、自分の子はどうだったか。そんな事にしか興味が沸かない親子関係って、とてつもなく寒いもの を感じます。
こちら の投稿も是非ご一読を。
「歪な子供収束」
家庭の中でマスコミに共認支配されている親が、今度は自らがマスコミと化して、我が子をアイドルに仕立て上げる。
最も身近な同化対象(親)が、自分にだけしか向いていなければ、子供にとって社会性を獲得する(視野を広げる)為の同化対象が完全に失われてしまいます。
この異様な自己中サイクルを目の当たりにして、昨今のイジメ・自殺や家庭内殺人などの問題の種は、ごく身近な領域で生み出されているのではないだろうか?と感じてしまいました。
「家の子に限って」
「家の子だけは」
このような意識が、どれだけ人間をダメにするか、改めて考え直す必要があります。
人間は、集団動物であり、共認動物、そして社会動物です。
みんなが、この社会を造っている、という当事者意識を持って、みんなの子供を育てる意識を持つこと。
大人達の課題は、子供をアイドル(人形)にする事ではなく、一人前の社会人(=社会の事を考えられる人)に育て上げる事です。
家庭用ビデオをお持ちのお父さん、お母さん、カメラのアングルを我が子ばかりではなく、社会に向けてみてはいかがでしょうか?
記事:かわい
投稿者 kawait : 2007年02月23日 TweetList
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