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「学校からの脱出」を私たち大人も真剣に考えるべき時

全てお膳立てされて、勉強だけしていればいい環境。これだけ見ても学校が実社会とかけ離れた特殊な空間であることがわかります。

子供たちはそんな学校に違和感を感じながらも、唯一の選択肢として学校に通わされ、疲弊し無気力になっていくのです。脱出するためには不登校という道しかない。

子供たちが敷かれたレールから飛び出して、自らの道を切り開こうとするとき、私たち大人は毅然としてそれを支援すべきです。それが大人としての役割なのだと思います。

以下(http://www.fujitsubame.jp/educationaq.html)より引用します。
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学校は、異常で、特殊な空間だと言う事を大前提とすべきなのである。
同じ年令の子供だけを、同じ人数の組に分け、一定の時間内、閉鎖された空間の中で同一の事をさせるというのは、通常の社会の中ではあり得ない。それを普通と言うだけでも異常である。これを一般社会で強制的にやれば、ある種の洗脳だと言われても仕方がない。この事の是非を言う前に、この点を自覚していないと重大な錯誤をきたす。つまり、集合教育の持つ危険性を見逃す事になる。

また、学校は度厳格な階級社会はない。差別社会もない。年令による階級は絶対的なものであり、成績や偏差値により、全ての人間の序列が決められている。しかも、進路、進学も決められている。これほど厳格に序列社会は、未だかつてない。

また、独裁的で権威主義的世界である。教室内では先生は、独裁者であり、どんな思想でも考えでも、親や当人の承諾なしに教える事ができる。学校というのは、密室社会なのである。学校の当事者が、反独裁、反権威を教えるのは、滑稽を通り越して一種の暴力である。しかも、彼等が、公平、中立を楯に取るのは、矛盾している。

ミニ独裁者が独裁は悪いと教えている。これは、自己矛盾だ。

教育者は、自分の置かれている立場、教室の中では、絶対的権力者であることを自覚しないと大変な事になる。
学校というのは、異常で、特殊な空間なのである。

(中略)

学校生活では、何でもかんでも予め決められている。
時間割も決められ、教科書も決められ、先生も決められ、勉強の仕方も決められ、テーマも決められ、答えも決められている。これはもう、大量生産型の教育である。

なんて、マナーが悪いんだ。だってそうしつけたでしょ。なぜ、言われたことしかできないんだ。だってそう育てたでしょ。

家庭では、自分のことは自分でしなさいと教えているというのに。学校では、子供達に下働きをさせない。
人にやらせるより自分がやった方が楽だからである。しかし、それでは、教育にならない。つまり、下働きや身の回りの世話は、それ自体が教育なのである。

後始末や後片付け、支度ができない。それは、学校生活の中で後始末や、後片付け、支度をさせないからである。

勉強のための準備は、全て、学校がやってしまう。それが、いかに教育上良くないかを理解していない。

結局、このような考え方が、師弟関係というものをも否定してしまっていることに気が着いていない。結果、師弟関係などあまり省みられることはなくなってしまった。先生に対して敬意を表したり、世話をすることは、悪いことだと言わんばかりである。

そのうえ、周辺業務、付随業務、随伴業務を仕事ではないと教えている。主たる業務というのは、それ一つで成り立っているのではなく、多くの付随業務や周辺業務を持っている。芝居が、主役だけで成り立っていないのと同じである。主役だけで成り立っているかのごとく錯覚していたら仕事はできない。当然、仕事は下働きから覚えていくべきなのだ。

ところが、この縁の下の力持ち的仕事を正しく評価し、教えようとしない。仕事場へ行っても、付随業務が、わからないから、主たる業務がわからない。良い例が、お茶くみである。接客に際し、お茶を出す仕事は、不当な差別だという。どの企業でも、来客にお茶を出すことは、大変な神経を使ってきた。そこに、会社の品位や礼節、規律をアピールしてきたのである。

会社の信用をにない、営業の一助となってきた。その仕事を無意味だという。それは、無意味だという人間の感性である。現実は、大切な業務なのである。確かに、なければ困るという仕事ではない。しかし、それを言えば、営業全体の業務がなくても良いという事になる。宣伝広告もいらないという事になる。仕事とに意味を見いだすのは、お客様であって、手前味噌の独善ではない。

思いやりや気配りは、付随業務や周辺業務でこそ発揮されるのである。誠意やホスピタリティを、一見意味のないような仕事を通じて、いかに社員に徹底させるか、そこに教育がある。

そう言う意味では、教育や指導も付随業務の一つ。お茶くみや下働きのような業務を否定されれば、教育も否定しなければならなくなる。

お茶くみは仕事は、仕事ではないと教え込まれる。では、誰が、来客に対する接客をするのか。お茶くみも立派な仕事であり、会社の大事な信用をになっている。お茶くみが悪いのではない。お茶くみの重要性が教えられない社会、職場が悪いのである。

一見、誰にでもできる、どうでもいい事だけで、必要な仕事、避けられない仕事、それが大切なのであり、同時に、教育には、最も良い機会を与えてくれているのである。

身の回りの仕事や身の回りの世話を通じて仕事を覚えていく。このプロセスを学校教育では教えない。そのことが、社会と学校との断絶を招いているのである。

先生の身の回りの世話や家の手伝い、授業の下準備をさせないから、親や先生、上の人間が雑用、雑務、雑用係になってしまっている。それでありながら、大切な話には、最初から子供達を排除している。
授業の下準備や家の手伝いは、何もやらせないかわりに、何も、任せないし、信じてもいない。これでは子供は育たない。

学校では、先生が生徒に教わることは何もない。しかし、現実の世界で目下の者や同僚が目上の者や同僚を指導するのは、日常茶飯事である。それが現実である。

現行の学校教育の弊害の一つに、こうした、現実と教育との乖離によって行動規範と倫理観を分離してしまうことがある。

今の受験勉強は、一種のカルマ、輪廻になってしまっている。死ぬまで続く苦悩の連鎖である。
いざとなったら、受験体制、進学の輪廻から抜け出させる親の勇気も必要である。一番大切なのは、自分の子供にとって生きていく為に何が必要なのか。大切なのか。自分の子供が何に向いているのかを見抜く力である。
ただ、受験地獄の中を彷徨わせることは、親にとって簡単な選択である。しかし、応報がなければ、それは、子供を意味もなく受験地獄を彷徨い続けさせる結果になる。勇気を持って敷かれたレールから飛び出し、自らの道を切り開かせる選択をさせるべき時がきたら毅然として子供を支援すべきなのである。その時こそ、親の真価が問われるのである。
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