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職場こそ学校、働きながら学ぶのが本来の 教育

社会に出て、生きていく力をつけてほしい。
親たちの教育に向けた期待の多くはこのあたりにあるのではないでしょうか。

でも実際に社会とどう関り、どう仕事に向かっていけばいいか、現在の学校教育では一切教えてくれません。

教育の役割は、やがて社会で生きていくための仕事へと収斂していくものだと思うのですが、教育と仕事が完全に分断されているのが現実です。

今回はこの教育と仕事について考えてみます。

以下(http://www.fujitsubame.jp/shinn113.html)より引用します。
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社会にとって何が必要なのか。それを、知るには、まず、自分は、迷惑を他人や社会にかけているという自覚が必要です。
社会にとって、人間というのは、迷惑な存在なのです。教育は、その自覚が原点になければなりません。人に迷惑をかけなければ、何をしても良いなんて、とんでもない発想だ。それは、教育なんて必要ないと言っているのと同じです。

必要な事とは、実際の社会で、また、当人が、現実に、困っていることです。仕事ができなければ、なければ本当に困ります。だから、仕事を覚える事が、一番、大事です。

困る事や迷惑の反対側に教育がある。
迷惑と困ることは表裏の関係にある。つまり、迷惑というのは、困ることの裏返しにあるのです。
困る事と言うのは、自分にとって負になる事です。
自分が困るから、そして、社会に迷惑をかけるから、学ぶのです。
社会に迷惑をかけっぱなしだと、自分が、困るから、学ぶのです。結局、親の為でもない、先生の為でもない、国の為でもない、自分のために勉強をする必要があるのです。

生きていく為には、仕事をしなければならない。働かざる者、食うべからず。働かない者は、それだけで社会に迷惑をかける。ところが、今は、働かなくても、生きていると、思っている人間が、増えている。だから、仕事もしないで家に引きこもっているだけで、誰にも迷惑をかけていないと言う。そして、養うのは、当然の、義務だという。迷惑をかけなければ、何をしても良いという考えの裏側にある発想だ。
とにかく、働かない人間は、社会にとっても、家族にとっても迷惑な存在なのです。
仕事をしないでブラブラされるのは、社会にとっても、自分にとっも困る事、不幸な事です。だから、自分の力で生きていけるようにするのが、社会からの要請です。そして、それは、自分の為でもあります。

しかも、職業教育は、早ければ早いほど効果が上がる。ならば、義務教育の内から職業訓練をすべきなのです。在学中にいろいろな職業を、経験させておくべきなのです。そうすれば、卒業した後でも選択肢の幅が広がる。俗に、潰しがきくようになるのです。そのためには、教育の内部に現実の仕事の現場を持ち込むべきなのです。
職場こそ、学校なのです。産学協同のどこが悪いのでしょう。本来、産業と教育は、一体であるべきなのです。これも、教育の現場が、反社会的、反資本主義的考え方に支配されている証拠です。
働きながら学ぶのが基本です。

お手伝いを通じて、子供達は、いろいろな事を学びます。実際の社会や人間関係、特に、自分が必要とされている事を学ぶことに大変な意義がある。家の手伝いをする事によって家事の事を学び、仕事を手伝う事によって仕事の作法を学ぶ。それが、実際に社会に出た時、どれほど役に立つか。ところが、あろう事か、学校教育は、このお手伝いを否定してしまっている。少なくとも、家の手伝いなんてしていたら成績は良くならない。
そのうえ、過保護なぐらい世話をやく。これがいいように見えて、実際は、社会に出た時、一人では、何もできない子を育ててしまう。
お手伝いをさせながら、できることは、何でも自分でさせる。それが、教育の基本。

商業高校や工業高校、農業高校、専門学校のあり方の方が、本来の公教育のあり方に近い。しかし、今日、これらの高校が廃れたのは、進学の道が閉ざされているからです。それは、大学のあり方の問題です。
普通高校は、学問を目指す者に適した機関です。しかし、全ての人間が純粋学問を目指しているわけではない。大学においても商科や工科のような学部がある。しかし、普通高校から進級するのが困難な状況だ。結果、簿記もわからない商学士が誕生する。しかも、いまや、数学すら、普通高校では教えなくなりつつある。

医学も普通高校以外からも、むしろ、多く進級できる道を開くべきだと考えます。

純粋学問が、必要以上に高く評価されている弊害なのである。
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