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「他人への依存」を否定すると、自立できない

人生は依存に始まって依存に終わる。

この単純な事実に気づくだけでも、周りへの感謝が深まりますよね。

 

https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001204.html [1]  より引用します。

 

 

寒くなってきましたね。寒いのが大の苦手なシロクマ精神科医の熊代亨です。

精神医療の世界でも、世間でも、「自立」はやたらと尊ばれています。自立している人は素晴らしい、自立していない人は自立を支援しよう、がんばってみんな自立しましょう――そういった空気が現代社会にはあるように思われます。

 

対して、「依存」は「自立」の対義語として語られがちで、こちらは受けがあまりよくありません。

でも、わたしが思うに、「依存」が「自立」の前提条件だと思うのです。

このあたりについて、今日はツラツラ書いてみようと思います。

 

 

◆「自立している人」だってどこかで誰かに「依存している」

一般的に語られる「自立」のイメージにみあった人物像というと、

あたりでしょうし、実際、こういう意味で「自立している人」はいます。

でも、こういう「自立している人」も、まったく誰にも「依存」していないわけではないんですよね。

 

たとえば起業家は、“一国一城の主”として自立している一方で、あちこちに人脈のネットワークを作って頼りあいながら、たくさんの人達の意向や利害も意識しながら活動しています。彼らは経済的にも精神的にも独立した存在ですが、他人に頼らずに1人だけでできることはたかが知れていますし、ときには、誰かの言いなりにならざるを得ない場面もあるでしょう。

 

これらを「依存」と呼んで構わないかは意見が分かれるところかもしれませんが、少なくとも、「他人に頼らざるを得ない場面」や「他人の意向や利害を意識しなければならない場面」は“一国一城の主”にだってあるわけです。

まして、サラリーマンともなれば、給与や仕事場を会社に与えられているという点では企業にどっぷり「依存」しています。もちろん、社外に強い人脈を築いているサラリーマンや替えの利かない専門的なスキルを持っているサラリーマンなら、いざとなったら企業を飛び出せる自信を持っているかもしれませんし、上司の顔色をそれほど窺わなくても済むかもしれません。

それでも、給与面も含めて会社にいろいろなものを頼っているのは事実ですし、その自信を支えている人脈やスキルにしても、会社の便宜に乗っかりながら獲得してきた部分が少なからずあるでしょう。

 

これらは「自立している人」として理想視されやすいテンプレートですが、彼らにしたって、誰にも頼らず活動しているわけではないのです。むしろ、「自立している人」と言われがちな人ほど、あちこちの人と、頼ったり頼られたりの相互依存の関係をたくさん持っているのではないでしょうか。

 

◆「自立している人」の正体は「依存の上手な人」

一般に、頼ったり頼られたりの関係は、

こじれます。

 

たとえば、1人か2人の相手になにもかも依存している人は、“生かすも殺すも相手次第”になってしまうため、相手の顔色を窺う度合いが高くなってしまいます。と同時に、その少ない依存相手を自分の意志に沿うようにコントロールしたい気持ちも膨らみやすく、依存とも支配ともつかないような、“重たい”関係に向かってしまいがちです。いわゆる「共依存」の関係などは、そのなれの果てと言えます。

 

反対に、もっとたくさんの相手に・少しずつ依存している人は、それぞれの相手の顔色を窺う度合いも、コントロール願望が首をもたげてくる危険性も少なくて済みます。たくさんの相手に少しずつ頼るような依存なら、少しずつ返すだけでギブアンドテイクの帳尻も合いますし、万が一、どれかの関係が壊れてしまったとしても決定的なダメージにはなりません。

 

わたしは、いわゆる「自立している人」の正体とは、これではないかと思っています。たくさんの相手と少しずつ依存しあっている人は、“重たい”関係に陥りにくく、ギブアンドテイクな関係もつくりやすく、相互依存のリスクヘッジがききやすい――こういったアドバンテージを確立している状態が、他人には「自立している人」という印象を与えるのではないでしょうか。

 

つまり、「自立している人=他人に依存していない人」ではなく「自立している人=他人に上手に依存している人」だとわたしは思うのです。

そういう「自立している人」になるには何が必要でしょうか。

 

たくさんの相手とギブアンドテイクな相互依存を成立させるためには、ある程度のコミュニケーション能力があったほうがよいでしょうし、経済的・社会的な資質もあるに越したことはないでしょう。他人とうまくコミュニケーションできず、提供できるものが少ない人は、ギブアンドテイクな相互依存は難しくなってしまうと想定されます。身も蓋もないことを言ってしまうと、たくさんの能力や資質を持っている人ほど「自立している人」に手が届きやすいのではないかと思います。

 

◆人生は依存に始まって依存に終わる。そのうえで「自立」を考えよう

とはいえ、誰もがコミュニケーション能力に恵まれているわけではありませんし、経済的・社会的な資質にも限界があります。それに、相互依存のギブアンドテイクをあまりにもキッチリやろうとすると、くたびれてしまいませんか。そこまで頑張ってまで「自立した人」を目指す必要って、本当にあるのでしょうか。

現代の日本人は、幼いころから「他人になるべく迷惑をかけないようにしなさい」、「責任感のある自立した人でありなさい」と教えられて育ちます。個人主義社会によく適応した人間になるためには、こうした教えは必要なものでしょう。

しかし、いついかなる時も「自立している人」であり続けるのは、それはそれでしんどいものですし、人間がはじめから「自立している人」として生まれてくるわけではない、という事実を忘れてはいけないように思われるのです。

 

人間の人生は依存に始まり、依存に終わります。

 

生まれたての赤ちゃんは母親にすべてを依存していますし、保育園から学校へと進学していく間も、親や教師や年長者に多くのものを頼りながら育っていきます。今、「自立している人」にしても、幼いころから自立していたわけではありません。コミュニケーション能力も種々の資質も、年長の誰かに依存しながら、頼りながら身に付けてきたものです。

 

そして人生の最終盤を迎えれば、介護をはじめ、多くのことを年下に頼りながら暮らすことになるでしょう。死ぬまで「自立」を貫ける人というのは、決して多くはありません。

「自立」成立の背景にある「たくさんの人達との相互依存のネットワーク」

 

現代の価値観では「自立」は尊いものとみなされていますし、この価値観は、たくさんの人とギブアンドテイクな相互依存をつくるにも適しているとわたしは思っています。けれども、1人の人間の「自立」がそれらしく成立している背景には、幼いころからたくさんの人に頼ってきた蓄積や、今現在の、たくさんの人達との相互依存のネットワークがあるのです。

 

「自立している人」とは、過去の蓄積と現在の努力、そして頼りあっているたくさんの人達の存在があってはじめて成立しているもので、病気や加齢、ライフイベントなどによって失われてしまうこともある、一過性の状態だとわたしは思うのです。

 

「自立している人」は確かによいものです。が、それをありがたがるあまり、依存を否定したり目の敵にしていたりすると、いざ「自立」が維持できなくなってしまった時に、すっかりうろたえてしまうのではないでしょうか。

 

私個人は、精神科医である前に1人のいい加減な人間なので、「自立している人」を目指したい気持ちと、もっと適当にだらしなく他人に依存したい気持ちの間をいつも揺れ動いています。迷惑や責任の問題を厳密に考えるなら、いつでもどこでも「自立」がベストかもしれませんが、完璧主義的に「自立」を目指すのも、それもそれで危うい気がします。「自立」とは言い難いような依存も、まあ、少しぐらいはあったっていいんじゃないでしょうか。

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