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言われたことしかできない「指示待ち人間」が増えている。

今の学校教育を見ていると当然だと思います。与えられた問題を教えたとおりに解くことを強いられ、問題そのもののに疑問を持つことは許されない。

こんな教育を小・中・高と12年間も続けていれば、立派な「指示待ち人間」が出来上がります。

以下(http://www.fujitsubame.jp/educationgg.html)より引用します。
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言われて事しかやらないから、言った事しかやらない。そして、言ったこともやらない、言われたこともできない。そして、必然的に言う人がいなくなったら、何をしたらいいか解らない。何もできないと言う状態に落ち込む。

学校を卒業したら、先生がいなくなる。行くところもなくなる。どうしていいか解らない人間が続出する。自由にして良いと言われても、主体性がないから自分がない。自分がない人間に自由にしろという事の方が土台無理なのである。

自分がないから、自分では何も決められない。決められないから意味もなく他人に追従する。皆がやるからやる。

こういう人間が増えてくる事は確実である。ここにも戦後教育の成果が現れている。一体戦後教育は何を目的とし、何を理想として行われてきたのか。

自分で物事を考え決める習慣を付ける教育をしていない。逆に、自分では何も考えずに、他人の言うとおりにするように躾けられている。それが今の学校教育である。これはある種の洗脳教育だ。しかも、この洗脳教育をしているのは、国家ではない。反体制勢力が、日本を支配する為にしている。

その結果、何も決められない人間が育っていく。

日本人は、決まる前は黙っている癖に、決まってからなんだかんだと文句を言う。
我々は、仕事をする上で「無駄口をきくな。」「話の話にするな。」「ガス抜きにするなと厳しく躾けられてきた。

だから結論が出たら、「誰とやる。」「いつやる。」「いつまでにやる。」「何処でやる。」「それまでに何をやる。」「終わったらどうする。」と言う発想に切り替える。

しかし、今は、逆の発想が要求される。

一番多感な中学生や高校生時代に、単に与えられた問題を決められたとおりに解くだけの教育がされている。問題意識を持ったり、答えに疑問を持つ事は許されない。ただ与えられた問題を決められたように解き、予め設定された正解を出せば正しいという事になる。これは一種の条件反射である。パブロフの犬である。予め設定された答えが正しいかどうかなど関係ない。その事に疑問が出す事はゆるされない。

実際、惑星に対する定義は、途中で改められたが正式に改められるまでは、古い惑星の正義が正しく。改正された後は、新しい定義が正しいのである。答えも日付によって左右される。その事に誰も疑問を持たない。要するに答えなんて正しいとするから正しいに過ぎない。

それが、日本の学校教育の正体である。答えが正しいかどうか、検討したり、討論したり、吟味するなどという事はとんでもない事なのである。

しかし、現実の社会はどうか。あらかじめ答えが設定されている事などあまりないし、答えが出てもそれが正しいかどうか検証しなければならない事だらけである。しかも答えは、答えを出した人が責任を持たなければならない。

正しいと思って決断した事でも結果が悪ければ糾弾される。

東日本大震災の際、正しいと思って子供達を自宅に送った保育園の園長がいる。園児の多くは、自宅に辿り着く前に津波に流された。園長、決断をした時最善の策だと考えたに違いない。しかし、結果は最悪の事態を招いた。いくら自分は正しいと思っていたのだと言っても許されない。だから沈黙を守るしかない。そんな事は日常茶飯事だ。

何が正しくて何が間違っているか、現実の世界では定まっていない。定まっていないけれど決断はしなければならない。なぜならば、不決断は最大の誤判断とされるからである。

大切なのは決断である。決断力である。だから私言うのである。考えてから決めるのではなく。決めてから考えろと・・・。

子供、よく考えてから決めなさいと言う親が増えている。というよりもよく考えてから考えろと洗脳された親が増えている。自分が子供の頃は、物事を決断する時に余り深く考えないようにされた。考えたら、と言うより迷ったら決められないとされていたからである。

決断というのは収斂である。野球でボールを打つか打たないかは論理的に決める事ではない。一瞬の判断を求められるスポーツや自動車の運転、機械の操作等では、いちいち論理的に判断していたらいざという時に、間に合わなくなる。

何でもかんでも考えて決めろというのは、決断力を鈍らせる為の陰謀のような事である。決断力は、経験的に養う事である事を忘れてはならない。問題意識は、問題を解く事によって養われる事ではない。疑問や好奇心を持って設問する事によって養われる。

その好奇心や疑問を学校の先生は、一番嫌う。なぜならば、答えが決まっていない事を教える力が今の学校先生にはないからである。答えが一つだけ決まっている事だから、試験もできるし、指導もできる。答えが沢山ある。極端な話、学校の先生は、二つある事は教えられない。教えられないから受け付けないのである。

しかし、世の中は、答えが一つしかないような事柄の方が希なのである。迷い迷って自分なりの答えを出し、その答えに従って責任を持って生きていく。教えなければならないのは、予め用意された答えではなく、生き方なのである。
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答えがいくつもある、なにが正解なのか定まっていない。そんな現実の中で決断し、行動しすること、自らの決断には責任を持ち、誤りがあれば正し、さらに前進していく。まさに生き方そのもの。

しかし最も大切な成長期に、強制的に「指示待ち人間」になるよう訓練されているのが現実です。それは小学校から徹底的に仕込まれます。

教育は人の生き方、社会の在り方に影響する根底的な課題です。今こそ自ら問題を発掘し、答えを出し、実現していくことが求められています。

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