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権威で人を育てることはできない。無能を自覚するから人の、子供の能力を引き出すことができる。

学校に行くと、先生がいます。教室では絶対的な存在、生徒からだけでなく、先生同士も“先生”と呼び合うほど、どこに行っても先生です。

今の社会、先生と呼ばれるのの医者や弁護士、政治家くらいでしょうが、それらと同等の権威があるかのよう・・・

今回は学校の先生の権威性について考えてみます。

以下(http://www.fujitsubame.jp/educationbb.html)より引用します。
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仕事をする上で、人を指導する立場の者は、自分の不徳・不明・無能を自覚する必要がある。あらゆる面で相手より自分の方が優秀だなどと思い上がったら、人を指導する事はできない。自分よりも、相手が優れていると思うから一緒に仕事をすることができる。相手の能力を引き出すことができる。相手より、自分があらゆる面で優れていると思ったら、相手と協同して仕事をすることは難しい。これは、ある種自明なことである。現実の社会のコミュニケーションでは、ほとんどのことが双方向なものでなければならないからである。ところがこの社会の常識が学校では、通じない。通じないから、往々にして、教育者は、自分の子供の教育に失敗をする。

学校教育では、常に、先生は正しく、絶対でなければならない。少なくとも、学校教育の当事者はそう思い込んでいる。つまり、権威でなければならない。過ちは許されないのである。だから先生と生徒の関係は、必然的に一方的、一方通行なものになる。常に、先生は正しく。せいとは悪い、間違っているのである。学校には、神や聖者・聖人が沢山いる。なにせ、聖職なのであるから。

だから、学校の先生は誰に対しても、卒業生や父兄に対して、いつでも学校の先生なのである。いくら相手が社会で成功しても、大変な学者になろうとも、著名な作家や芸術家になっても、人格者であっても、偉大な政治家や指導者でも、先生は先生なのである。つまり、相手よりも偉いのである。

家に帰っても、風呂に入っても、トイレにいても先生なのである。だから大変なのである。どこへ行っても裃を着ていなければならない。

現実の社会の指導者は、自分より優れた者を多く自分の部下にする事を誇りにしている。いかに、自分より優れた者を指導するかに腐心している。学校の先生だって本来は、自分より優れた生徒をいかに多く育てるかが仕事のはずである。そり為には、教育者は、自分の不徳・不明・無能を恥じ、生徒の中に潜む可能性を見出すべきなのである。
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今は、自分が権威だとか、絶対的な支配者だと思っている先生はいないでしょう。でも学校制度の中で、教師という立場に立ち子供たちと接するうちにそうなってしまうのかもしれません。

そうして一度権威の位置のに座ってしまうと、子供たちは支配の対象になってしまい、本来の教育、互いに能力を認め合い、高め合う関係は失われてしまします。

無能を自覚するから子供の能力を引き出すことができる。子供に限らず、人と接するときは決して忘れないようにしたいところです。

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