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仕事も家庭も、学校も社会もひとつながりになった社会をつくろう。

学校の前を通ると、壁の向こうに隔離されて、一歩も外に出ることが許されない刑務所のように感じてしまいます。

そこまではいかなくても、日常とは異なる別世界という印象は誰もが抱くのではないせでょうか。

今回はその学校の現実、これからの学校の在り方について考えてみます。

以下(http://www.fujitsubame.jp/jiyuu307.html)より引用します。
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学校は、作られた世界に過ぎない。現実の世界とは違う。ところが、学校にいる人間は、そのことを自覚していない。それ故に、現実と虚構の世界が混同してしまい、作られた世界が真実であり、現実が、あたかも虚構の世界のように、子供達に錯覚せてしまう。

学校にあるのは、現実の世界の標本のようなものである。一見、現実を模倣しているが、現実とは、まったく違うものだ。偽物である。だから、なおさらたちが悪い。子供達は、偽物を本物と教えられて、あたかも現実を理解したかのごとく信じ込んでしまう。偽物を本物、本物を偽物と教え込まれたら、正しいものを見極める眼は養われない。子供達の純真な、眼を潰して盲目にしているようなものだ。

正しい眼が養われなければ、正しい行いもされない。
実際の世界を観察し、新しい発見をすることは、学校では許されない。しかし、学問というのは違う。現実の世界を観察し、新しいものを発見するのが、学問である。学校で教えているのは、もう学問ではない。では、学校で教えているのは、何なのか。
教師は、万能の神のごとく存在している。答えは、常に、教師が用意するのであり、その答えは絶対である。用意した答え以外の答えをすることは、許されない。
神である教師は、生徒、一人一人の運命をすら握っている。彼等の作り出す問題によって、生徒一人一人の人生すら決められてしまう。

学校では、この世の全ては、教科書によって決められていることになる。
教科書に書かれていることだけが正解であり、教科書に書かれていないことは、それが世間一般では、常識、正しいこととされていることでも間違いになる。子供達にとって教科書の中の世界が、現実なのである。しかも、学校の世界の住人は、自分たちが作り出した現実以外を認めようとはしない。
教科書に決められたこと以外正しくないとされれば、教科書がなければ何もできなくなるのは当然である。
しかし、現実の社会には、教科書などない。自分で判断し、解答は生み出さなければならない。これでは、学校の作り出した現実と本当の現実とが乖離し、世界観そのものが歪められてしまう。

このような教育を受けた者は、あらかじめ用意された答え、指示されたことしか答えられない。しかし、現実の世界に用意された答えはない。条件や環境が変われば、答えは毎日のように変わる。変化する環境や状況に即応し、適切な判断を下せる力をつけさせることが、本当の教育の目的である。
人生の悩みや大切な価値観は、教えられない。人生の岐路に立ち、苦しんでいる生徒達に対し、教師は無力である。

学校では、何もかもが、決められている。しかし、現実の世界では、そのようなことは希有な事である。
決められたことだけが正しくて、それ以外のことは、間違いになる。用意された答えの中から正解を選ばなければならない。そこには、創造性はかけらもない。
こんな環境に長くおかれれば、決められたこと以外できなくなるのが、当然の帰結である。そして、決められた答えがないと不安になる。逆に、どんな困難なことにぶつかっても、その事実を認識できず。誰かが、正解を出す事を期待するか。どこかに決まった答えがあると、現実を常になめてかかるようになる。予期せぬ答えは、許されない。

しかし、現実の世界は予期せぬ出来事ばかりである。だから、学校は、現実の適合できない人間を多く生み出すのである。ただ、それが大きな問題にならないのは、まだ、戦後の教育を受けた者が、決定を下さなければならない立場に立っていないからである。しかし、兆候は、すでにある。

試験に受かること以外、目的が、ない世界。学校とは、そういう世界である。
生きていくために必要な知識や技術は、何も学校では教えない。なぜならば、学校生活には、それらの知識や技術は、不必要だし、かえって弊害になると思われているからである。

無目的で、無原則で、無計画な世界、それが、学校という世界である。

教育の現場は、地域社会であり、教育の主役は、地域住民、親、保護者である。学校や教師は、脇役、補助にしかすぎない。その脇役が、いつの間にか、主役に躍り出てしまった。問題は、そこにあるのである。もっと、親や保護者、地域住民が、参加できる仕組みを作る必要があるのである。

教育の現場も教育の主体も現代社会では、バラバラでその間には、何の脈絡もない。しかも、それぞれの価値観、理念に何の統一性もない。だから、家庭と学校、仕事と家庭とを器用に使い分けるような生き方が横行するのである。この様なあり方は、自己の統一性を破壊し、人格の分裂を引き起こす原因となる。その人の人生は一つしかないのである。仕事と家庭、学校と社会とを分かつべきではない。

この様に分断された社会において、学校が全てではない。学校を全てだと思わせてはならない。学校を全てだと思いこませたら、学校生活に挫折した時、行き場所を失う。結果、自殺の原因になる。

隔離され閉鎖された世界から、よりオープンな世界へ、学校を変えていく必要がある。一般社会と学校との間にある垣根を取り除き、より解放された世界に学校をするのである。そのためには、教育の主権を保護者と地域住民の手に取り戻さなければならない。

誰が、また、どこで、何を教育するのか問題でもある。教育を学校だけに任せるべきではない。教育は、地域社会全体、地域住民全員で行うものである。

人間にとって学校生活をおくる年代というのは、最も重大な時期である。その大切な年齢を幸せに、過ごせるかどうかは、その人の、その後の、人生に対し重大な影響を与える。そして、その大切な時間の大半を、子供達は、高い塀で、囲まれた学校で過ごす。確かに、子供達にとって不幸な事件が続いた。だからといって、学校の壁を高くすれば、問題は解決されるのであろうか。子供達が安心して暮らせる社会を、作ることが、先決なのである。そして、それは、地域コミニュティ全体が学校と一体になる必要があるのである。
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仕事と家庭、学校と社会が分断されている現状がどれほど異常なものか。
私たちはよく考える必要があります。

そして仕事も家庭も、学校も社会も、ひとつながりになった社会を、子供たちが安心して、活力をもって暮らしていける社会を作ることが私たちの使命なのだと思います。

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