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こどもが外で遊ぶことの大切さ ~そっか1

こどもの遊びがいかに大切かは間違いなく重要なこととして認識されています。中でも、外で、自然の中で遊ぶことが、こどもの成長に有効とされています。子供時代の楽しかったことを思う出すと、直ぐ思い浮かぶのが、友達と近所の森で遊んだり、稲刈り後の田んぼで転げまわったり、たまに連れて行ってもらった海で遊んだことなんですよね。

greenz [1]  さんより

意味の無さそうなことにこそ、意味がある。子どもも大人も“食べる・つくる・遊ぶ”をともに楽しみ、半径2kmの地域共同体を育む「そっか」はじまる

食べる、つくる、遊ぶ。そして、集う。
大昔から、私たち人間が営んできた、当たり前のこと。
その“当たり前”が今、かたちを変えつつあります。

たとえば、今日の食卓。あなたの地元で採れたものは、どれだけあるでしょう。
たとえば、子どもたちの遊び。自分の足で大地を踏みしめ、すぐそこにある自然の中で遊ぶ時間は、どのくらいありますか?

きっと、昔は100%だったそれが、とても少なくなってしまった現代社会。そこで失われてしまったのは、私たちを取り囲むさまざまなものとの“つながり”です。

今日ご紹介するのは、人と足下(あしもと)の自然や地域とのつながりを取り戻す活動を展開する一般社団法人「そっか [2]」。神奈川県逗子市をフィールドに、「食べる・つくる・遊ぶ」という“人間活動”を、子どもも大人も、半径2kmに暮らすご近所さんたちみんなでともに楽しむことで、本当の意味での“地域共同体”を育むべく、日々活動しています。

「そっか」の共同代表を務めるのは、逗子に暮らし、「海」をキーワードに活動する4人。今回は、その中のおふたり、複数海域にてシーカヤックでの無伴走の世界初航海を成し遂げた海洋冒険家・八幡暁さん、そして、国際交流NGO「ピースボート」スタッフとして地球を9周した活動家・小野寺愛さんにお話を聞きました。

これまで広い世界を見てきて、「世の中意味のあることが多すぎる」と語るふたりが、今、“足下(そっか)”に見据えているものとは?

ふたりの言葉から、子どもにとって、あなたにとって、そして私たちの未来にとって、本当に“意味のあること”とは何かを、ぜひ感じ取ってみてください。

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まちの「そっか!」をみんなで体感するために

「そっか」は、神奈川県逗子市に2016年7月に誕生したばかりの一般社団法人。“まちの足下(そっか!)を取り戻す”を合言葉に、地域の人々が、自分たちの命が何に支えられているのかを実感し、“消費者”から分かち合いの生態系を育む“主体者”へと転換するためのきっかけづくりを行っています。

まずは「そっか」の活動エリア、海も山もある半径2kmを歩き、そこで起こっていることをともに体感してみましょう。

最初にやってきたのは逗子市立久木小学校のなかに、今年できたばかりの小さな畑。小学校のPTAで委員をする小野寺さんが舵取り役となり、地域の造園屋さんや材木屋さんの手を借りながら、子どもと大人が一緒になって土をつくり、雑草を抜き、水やりして、トマトやブルーベリーを育てています。

安全重視になりがちな公立小学校に保護者が運営する畑があることは、実はとてもめずらしいこと。逗子市の児童青少年課、ふれあいスクール、「放課後NPOアフタースクール」の協力のもと実現した、その名も「つながる畑」です。

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トマトの隣に、風味をよくして、害虫が嫌う香りをもつバジルとマリーゴールドを植える子どもたち。「子どもと一緒に食べものをつくるのが、楽しくて仕方ない。みんなでつくってみんなで食べる、は共同体の原点ですね」と小野寺さん

少し足を伸ばして山の方へ行くと、荒廃して雑草だらけの国有地を前に、大人たちが「ここに食べ物を植えられるよね」「イチジクかミョウガがいいかな」と、何やら楽しそうに話をしています。実は彼らの仲間には、これまでに使われていなかった私有地を地主の方と交渉して、畑に変えた経験者もいるのだとか。

近所の庭、手入れされないまま放置された私有地、うっそうと茂る竹林、公共施設の一部など、自分ひとりではどうしたらいいかわからない土地は、どのまちにもたくさんあります。でもこのエリアでは、まちのいたるところが、みんなの手でこうして畑や遊び場へと変わりつつあります。
また少し歩いて駅の方へ。京急逗子駅のすぐ下を流れる田越川には、子どもも大人も、約60人が大集合。みんなで川に入り、じゃぶじゃぶと下流へと向かって歩き始めました。

主催者が「怪我はします」「溺れさせてもOK」なんて堂々と言っちゃうこのイベントの目的は、ゴールの海まで歩くことよりも「みんなでみんなを見合う」こと、そして、自分の暮らす土地を流れる水の「来し方行く末を探険する」こと。

顔すれすれまで水が来るような小さな子どももいる中で、お互いに声をかけ合い、ときには沼を這い上がったり泳いだりしながら、海まで自分たちの足で歩いて行きました。

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大人も子どもも、ともに見合うことが目的の「田越川じゃぶじゃぶ」

 

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