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「なんのために」を見失うのも見つけるのも、すべては自分の意思

子供は親が薦めるものは、基本、「いいよ」と受け容れてくれます。

でも、子供の人生は子供自身のもの。

本人が自分自身のタイミングで選び取っていくものなのではないでしょうか。

 

中学受験を終えた少年を襲った「想定外の地獄」 「中高一貫で成績を伸ばす学校」のカラクリ https://news.goo.ne.jp/article/toyokeizai/business/toyokeizai-312941.html?page=1 [1]

より引用します。

 

中学受験を決めたのは母親の望みからだった

 

今年、大手企業から内定をもらった千葉県在住の田代賢雄さん(仮名、大学4年生)。大学の門の前で待っていてくれた彼は「わざわざ雨の中いらしていただきありがとうございます」と丁寧な口調で出迎えてくれた。

 

細身で柔和な印象の彼だが、大学に入るまでの数年間、悶絶するような心の苦しみの中にいた。きっかけは、中学受験。すべての人がこうしたケースに当てはまるとは言わないが、彼のたどった道のりは傾聴に値する。

 

田代少年が中学受験を決めたのは母親の律子さんの望みからだった。近くの公立小学校に通っていた田代少年は、学校の成績は優秀そのもの。テストではつねに100点を取り、勉強で困ったことはなかったという。

 

そんな賢さを伸ばそうとしたのだろうか、母親の律子さんは小学3年生の賢雄君を塾の見学に連れていった。「賢雄、うちは中学受験をすることにしたから、中学受験のための塾に入ろうか」。それが入塾のきっかけだった。

 

中学受験とはどういうことなのか……当時の賢雄君はよくわからないまま、母親の言うとおり、塾の見学に行くことにした。それもそのはず、賢雄君の住むエリアは中学受験をする子どものほうが少なかったため、周りの友だちが中学受験を話題にすることもなかったのだ。

 

「母親から言われたのは“中学受験をしておけば、みんながする高校受験はしなくてよくなるから楽だよ”ということだけでした。自分にはとくに意思はなくて、親がそう言うのならばそうなのだろうなと、とくに疑問も持たずに入塾しました」。入ったのは栄光ゼミナール。いくつかの塾を見学し、家からの近さと授業時間の短さが気に入り、ここにした。

はじめは週に2回ほど。学校の宿題と塾の宿題の両方をこなす生活も、それほど苦労することなくこなしていた。だがほかの子どもたち同様に4年生になると状況は変わったという。塾の授業についていくのがつらくなりはじめた。そうなると、宿題もなかなか終わらない。おまけに、塾で前の席になった女の子からはやたらとちょっかいを出されるようになり、ますます授業に集中できなくなってしまったのだ。

 

母親には女の子のことは話さず「塾の授業についていけないから塾を替えたい」とだけ伝えることに。母親の律子さんは息子の意見を尊重し、すぐに新しい塾を見つけてくれた。塾の5年生クラスが始まるタイミングで個人経営の塾へと転塾、前の塾に比べて距離は遠く電車で6駅、そこから徒歩で10分という道のりだが、すでに高学年に入った賢雄君にはそれほど苦にはならなかった。問題は成績だ。

 

「小学校のテストだけはよくできていたのですが、それは井の中の蛙というか……学内での成績がよくても、模試の偏差値は50にいくかいかないかというところでした。模試では結果が出せなかったんです」

 

好きでやっていたはずの勉強がこの頃からだんだんと嫌いになりだしていく。

 

賢雄君の場合、模試で結果が出なくても、学校での成績はそのまま好成績をキープ。だからこそ、親は「この子の成績に見合う外の学校へ」と思っていたのかもしれない。

 

首都圏には受験をして入る中学は山のように存在する。母・律子さんの志望校選びを見ていても”何がなんでも偏差値の高い学校に!”というような「教育虐待」的な雰囲気はまったくと言っていいほど感じない。また、模試の成績が振るわなくともそれほど強く叱ることもないようだった。

 

流れに任せて決めた志望校

 

一方、賢雄君の気持ちはと言えば、受験をすることを受け入れてはいるものの、まだどこかひとごとに近い感覚。母親と共に行った説明会でもとくにこれといった希望はなく、流れに任せて偏差値的にも見合っていた塾長が勧める学校を第一志望校に据え、受験を進めることにした。

 

この中学には大学受験でいうところの“専願者”向けの入試があった。合格した場合、必ず入学することを条件にしている入試だ。

 

賢雄くんはこの入試を利用して無事に合格。このとき、面白いことが起こる。「普通は合格発表まで合否はわからないと思うんですが、通っていた塾の塾長とそこの学校の先生がとても親しかったようで、合格発表の前に塾経由で合格を知らされたんです」。

 

事前に合否を聞けるほどの強いパイプを持つということは、賢雄君が通っていた塾は、それだけ多くの児童をその中学に送り込んできたということだろう。

 

塾の講師も人間だ。好きな学校があるのもわかる。講師によってはやたら同じ学校を勧める人間もいる。それはその人の好みの問題。勧めることをやめろということはできない。親は講師の言葉を鵜呑みにせずに、本当にわが子にとっての最善校か、確かめる必要があるだろう。その後の賢雄君の状態を聞き、強くそう思わされた。

 

入学したのは自宅から1時間半はかかるという共学校。入りの偏差値の割には出口の大学合格実績がいいことで有名な学校だ。だが、そこにはからくりがある。何もしなくてこれだけの合格実績に結び付くことはない。強制的にたくさん勉強させることで生徒の成績を伸ばしていくタイプの学校だった。

朝8時10分から夕方6時まで、1日8時間授業の日が週に3日はあったという。おまけに部活動も全員参加。

 

「部活は週に2日だけでしたが、授業時間内の2コマ分が当てられているため、必然的に全員参加になるんです。だから結局ほとんどの日が8時間授業です」

 

片道1時間半の通学に、これだけの授業、当然ながら宿題もある。「高校受験がないから楽なのよ」と言われて挑んだ中学受験だったのだが、気がつけば地元の中学に上がった周りの友達よりも苦労をしているように思えた。

 

「みんなが遊んでいたときも、僕はずっと勉強をしてきたのに、なぜ自分だけこんなに勉強をしなくてはならないのか……」

 

言葉にできない気持ちだけが賢雄君の奥深く、まるで根雪のように蓄積された。入学から1カ月が過ぎた頃のこと、風邪をひき学校を休んでしまった賢雄君はここから坂道を転がるようにいろいろな事態が起こり出す。

 

入学した学校は出席率をとても大事にする学校だった。校長先生の話の後には必ずクラスごとの出席率が発表されていたという。賢雄君は自分のクラスの出席率が下がっていることがわかると、なぜか「自分のせいだ」と思いつめるように。

 

友達から気に入らないあだ名をつけられたのはその頃だった。「キノコ頭」。同級生が何気なく髪型を茶化してつけてきたこの呼び名が賢雄君はどうしても許せなかった。「やめてよ」といっても呼び続ける級友に、思わず手が出てしまった。

 

いじめ、そして体が悲鳴を上げ…

 

その日を境に小さないじめがはじまった。ロッカーにしまっておいた運動靴が外に放り出されたり、財布からお札が抜き取られることもあったと言う。「学校に行きたくない」という気持ちは強くなり、週に1日は学校を休むように。担任を含む関係生徒との話し合いの末、いじめの件は落ち着いたのだが、賢雄くんの中に蓄積された“根雪”が解けることはなかった。

 

「なぜ、僕はこんなに頑張らなくてはいけないのか……」

 

満員電車に揺られて学校へ行き、8コマの授業をこなし、また1時間半かけて帰宅する。自宅に着く頃にはすでに夜8時前。ご飯を食べてお風呂に入り寝るだけのサイクル。気持ちとの因果関係はわからないが、追い討ちをかけるように今度は賢雄君の体が悲鳴を上げた。過敏性腸症候群。便がゆるくなりやすくなり、1時間半の通学がつらい状態になったのだ。

 

「せっかく入った学校なのだから」と、母親の律子さんは懸命にフォローした。とにかく、学校に着けば何とかなる。電車での通学が難しいのならば、車で送っていってやろう。そうすれば、車の中で休んでいることができる。毎日片道2時間の道のりを車で送迎、2年生の1学期はこうして何とかやり過ごした。

 

だが、賢雄くんの心と体調が整うことはなく、2年生の2学期からは公立に転校、賢雄君の中の“根雪”はそこからまた冷たさを増していき、登校2、3日で不登校となってしまった。

 

「今までの時間は何だったんだ。何のために塾に通い、人よりも勉強してきたんだ……」

 

賢雄君の頭の中にぐるぐると現れるのは「何のために……」という思いだった。

引きこもりとなった賢雄君は昼夜が逆転。はじめは家族のいる時間にリビングに下りることもあったのだが、そのうちにほとんど顔を合わせなくなった。そんな中、2歳違いの妹も中学受験をすることに。これが賢雄君の反抗期だったのか、自分でも驚くほどの憤りの気持ちが湧き起こったのだという。

 

「妹にも僕みたいな思いをさせるのか!」

 

怒りを両親にぶちまける日々。だが、妹本人は「私、ここの学校に行きたい」と志望校を早々に決め、受験を難なくクリアして、希望する学校に通い出したのだ。

 

「なんだ、僕だけか、こんな気持ちになるのはと、だんだんと自分が情けなくなって、さらに引きこもってしまったんです」

 

夜な夜な冷蔵庫の中身を全部リビングにぶちまけるなど、賢雄君は今の彼からは想像もできないような傍若無人な態度をとっていた。

 

「周り全部が嫉妬の対象でした。小学生のとき、周りの子と同じように普通に地元の中学に上がらせてくれていたら、こんなことにはならなかったんだとか、中学受験してしまったばっかりにという気持ちが残ってしまっていたんです」

 

「中2の京都を取り戻したい」

 

だが、そんな引きこもり生活から脱却したのはとことん自分の気持ちと向き合った賢雄君自身の内側からの声だった。

 

「中3の4月だったかな。修学旅行で京都に行くことになっていて、なんかここを目標にしようと思ったんです。実は私立中学に通っていた頃に中2の夏休みに修学旅行があったのですが、不登校になってしまって行けなかったんです。そのときも行き先は今回と同じ京都。なんか、そのときの“京都”を取り戻したいって思ったんですよ。理由はわからないんですが」

 

1年近く引きこもっていた賢雄君は目標が持てたことをきっかけに保健室登校を始め、徐々に外に出られるように回復した。クラスには入れなかったものの、独学で高校受験の準備を進め、偏差値40ちょっとの県内の高校へ進学、高校には何とか通い、1浪を経て都内の大学に進学した。

 

「同じように中学受験をした妹はきちんと学校にも通えていました。僕の場合はおそらく、自分で選んだという気持ちがなかったことが原因だったのかもしれません。自分で責任を負う気持ちがどうしても生まれませんでしたから」

 

そんな賢雄さんにこれから中学受験に挑もうとする親子に伝えたいことを聞いてみた。

 

「母親が2時間もかけて車で送迎してくれたことは本当に頭が下がるのですが、僕の場合は中学受験をすると決めたのも親だったし、学校を決めるのも親でした。僕には意見がなかった。きちんと自分の意思を持って入学できていたのなら、違った歩みになったのではと。

 

子どもが意見を言わないのは同意ではなくて、自分のようにただわからないだけということもあります。これから中学受験をしようとされている親子さんたちに伝えることがあるとすれば、意思を持って受験に挑んでほしいということでしょうか」

 

雪解けを迎えた賢雄くんは、自ら選んだ大学に進み、自ら選んだ会社を受け、内定を勝ち取り、立派な大人へと成長していた。

 

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