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「社会人=懲役40年⁉」~労働はいつから「苦役」になったか

数年前ですが「社会人=懲役40年」というワードがネットで話題になりました。今でも就活生に聞くと、就職に対しては不安を感じる、恐怖すら感じるという反応が返ってきます。

まさに働くこと=苦役そのもののとらえ方です。

社会に出て働くことが、なぜこれほど否定的になってしまうのか?

今回はその背景について考えてみます。

以下(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51300?page=3)より引用します。
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●労働はいつから「苦役」になったか

労働を意味するフランス語のトラバイユは、ラテン語のトリパリウムを語源としている。元々は重い荷物を載せた車輪がきしむ音からきた言葉であり、古代の奴隷たちの労働をさす、労苦、苦役というような意味で使われるようになった。

といってもヨーロッパの人たちが、労働を単なる苦役だと思っていたわけではない。

実際に働いている人たちが書き残した文書としては、古くは石工の書いたものが残されているが、それを読むと労働には苦しいことも楽しいことも達成感もあって、けっして労苦だけだと感じていたわけではなかった。

おそらくそれが、中世までの普通の人たちの感覚だろうところが労働=労苦というとらえ方が、近代になると甦ってくる。

産業革命が起こり、近代的な労働者が生まれてくると、労働者のなかからは自分たちの労働を労苦だととらえる人たちがふえてきた。その原因はヨーロッパの近代社会が、階級社会として形成されたことと関係していた。

労働が労苦になるかどうかは、その労働がどのような関係のなかでおこなわれているのか、が強く影響している。

たとえば自営業者はしばしば長時間労働をしているが、疲れることはあっても労苦と感じることはないだろう。命令された労働でも監視された労働でもなく、自分の意志でおこなっているのだから苦役ではないのである。

近代に入って労働=労苦という感覚が甦ってきたのは、階級社会の下で、労働者は命令に従うだけ、監視下におかれるだけの労働に従事しなければならなかったことが原因だった。

それではお金と引き替えに自分の労働力を消耗させるだけになってしまう。とすればこの労働を労苦としてとらえる人たちがふえていくのも当然のことである。

もちろん身体や生活を壊してしまうような長時間労働が許されるわけではないが、労働を苦痛なものに代えてしまう要素としては、どんな関係のなかでその労働がおこなわれているのかが大きいのである。

こんなこともあった。

日本は1960年代に入るとさまざまな工場で技術革新が進んでいった。ベルトコンベアの前に立ち、一日中単調で単純な同じ労働を繰り返す。そんな工場が各地に生まれていった。

それは疎外された労働という言葉を一般化したが、当時の調査結果を見ると、労働者たちが疎外感を感じていたのは、このような労働の変化以上に職場の人間関係の変化だった。

技術革新に伴ってそれまでの横に結ばれた職場の雰囲気が変わり、管理職と一人一人の労働者という縦型の職場ができたことに、労働者たちは「疎外」を感じていたのである。

●人生の楽しみは労働以外で

さらに次のことも付け加えておかなければならない。

20世紀に入るとアメリカで、生産管理の方法として時間管理という手法が広がっていく。

産業革命自体は、すでに18世紀にイギリスで起こっていたが、このときからすべての労働が単調労働に変わったわけではなかった。とりわけ金属機械などの分野では、工場のなかの生産は職人的な労働によっておこなわれていたのが現実だった。

ところが20世紀になると画期的な手法が「発明」される。

職人的な労働の内容を分解し、単純労働を横につなぐことによって、熟練の職人と同じ生産ができる方法が生まれたのである。

その創始者はテーラーやフォードであったが、労働が単純化されればその労働のスピードが最大になるように管理することができる。このことによって労働の効率性を最大化させることができるようになった。

労働が「何かをつくりだすこと」から、その作業に従事する時間に変わったのである。経営者たちは時間管理をとおして、労働を統制することができるようになった。

ところがこの変化は労働者たちには不評だった。自分の腕に誇りをもって働いていた人間たちが、管理された時間労働をするだけの人間になってしまったからである。

この不満を解消するために、20世紀前半のアメリカでは余暇という考え方が出てくる。

たとえ労働は苦役でも、そのことによって高い収入を得て余暇を楽しむ。それが人間的な生き方だという提案である。労働のなかにあった誇りや楽しみを奪い去る代わりに、労働の外に楽しみをつくりだそうとしたのである。
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結構当たり前に使っている「余暇」という言葉。労働が苦役になっていく過程で労働者を救済するためにつくられたものだったのですね。
今でも「ワークライフバランス」などといいますが、働くことの喜びを奪われたまま騙されているだけなのかもしれません。

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●私たちが直面しているふたつの課題

現代社会はこの変化の延長線上につくられている。

退社後の時間や休日、夏休みなどを楽しむ。さらには家を購入したり車や電気製品などを買いそろえる。子どもたちを進学させる。そういうところに人生の楽しみを設定し、労働自身の楽しさはあきらめさせる。

ゆえに、働いても労働外の楽しみが実現できないような低賃金や長時間労働がおこなわれることは、社会的正義に反することととらえられるようになった。

とすると私たちは、ふたつの課題を背負っていることになる。

ひとつは現実がそうなっている以上、労働外の楽しみの実現を阻害するような待遇、働き方は改革されていかなければいけないという課題である。

だがそれは根本的な解決だろうか。もうひとつ、労働が時間管理としておこなわれるという非人間性の問題があるはずである。

納得できる労働を3時間することより、諒解できないままに1時間の労働をする方が精神的な負担が大きいといったことはしばしば起きうる。

そしてこの諒解できない労働が発生する原因は、その労働がどういう関係のなかでおこなわれているのかに起因している。

納得できる関係として労働がおこなわれているのなら、その労働は働きがいにもなる。しかし諒解できないのならそれは苦痛、苦役であり、この問題が古くは産業革命の時代から、20世紀に入ると幅広い分野で発生していたのである。

自分の労働に納得、諒解できるかどうかは、どこに境界線があるのだろうか。それは自分の労働が「職人的」におこなえているかどうかである。

ここでいう「職人的」とは、最終的につくりだされていくものが自分の目に見えていて、それをつくりだすプロセスがわかっている。さらにこの過程での自分役割が有益なものとして理解され、その役割をこなしていくために自分の経験や能力が有効に働いていると感じられるということである。

実際、伝統的な農民や職人、商人たちは、そのようなかたちで自分の労働をおこなってきた。

とともに今日の企業のなかにも、そういう労働のあり方を内蔵していることがないわけではない。だからこのような分野では、長時間労働が疲労はもたらしても、苦痛にはならないということも生じる。

●本当の「働き方改革」とは

さてこのように考えていくと、「働き方改革」が、時間管理だけであってはならないということがわかってくる。

もちろん現在の状況では、子育てもできないような長時間労働がおこなわれたり、長時間労働が精神的な圧迫を与える状況が生まれている以上、残業規制なども必要であることはいうまでもない。安心して働くためには、低賃金な非正規雇用を減らしていく努力も重要である。

だがそれは、時間管理を徹底することでしかないのである。

労働時間を減らして余暇をふやすというのも時間管理だし、労働時間を減らそうとすれば、おそらく多くの企業では、労働密度を高めようとするだろう。すなわち、就労時間の時間管理が徹底されることになる。それでは労働の苦役度を上げることによって、労働外の時間を増やすことにしかならない。

私たちの最終的な課題は、労働を人間的なものに変えることだ。時間管理でしかないような労働からは、人間的な労働は生みだされない。

だからいまそのことに気づいている人たちは、時間管理の世界から自分の労働を解放しようとして、職人的な労働が可能な世界に移動しようとしている。

それはときに農民的な世界であったり、伝統的な職人の世界、小さなベンチャービジネスやソーシャル・ビジネスの世界だったりするのだが、そういうものに移動する動きがいまでは日本中で起こっている。

それらは一面では低収入な労働や長時間労働をもたらしたりするのだが、そんなことよりも労働が時間管理でしかないことから自由になることの方が、そういう人たちにとっては重要なのである。それが彼らや彼女たちの「働き方改革」である。

社会的正義に反するようなことは変えなければいけない。だが「社会的正義に反すること」のなかに、時間管理でしかなくなった労働をどう改革するのかということをふくめなければ、根本的な解決にはならないのである。
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時間管理にばかり執着する「働き方改革」から、労働を人間的なものに変えるため解放に向かう潮流はすでに始まっています。農業や職人的世界、若者の起業意識の高まり・・・

「新社会人=懲役40年」という若者の対極に、働くことの喜び、充足を予感し実現しようとする世代が生まれつつあります。本当の働き方改革これから始まるのです。

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