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学校に対する違和感の正体~原因は自分ではなく、社会から隔絶した学校にある。

不登校が増えています。

その時子供から発する言葉は「学校に行きたくない」。いじめであったり、勉強が嫌いだったり、学校の決まりに理不尽さを感じたり・・・

理由は様々ですが、その奥にある学校そのものの問題については踏み込めないのが現実です。

今回は不登校を体験した方の言葉から、違和感の正体について考えてみます。

以下(https://futoko.publishers.fm/article/20593/)より引用します。
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――不登校のきっかけはなんだったのでしょうか。

きっかけっていうものがいまだにわからなくて、「何が」「どうして」とうまく言えないんです。

イヤなことやつまらないことがたくさんあったんですが、それのどれをとっても決定打になったものがなくて。しいて言うならば違和感でしょうか。

そもそも幼稚園に行きたくなかったんです。とにかくイヤだったのがお昼寝の時間。だって眠くないのに「寝なさい」と言われますからね。

急に寝るなんてできないし、「どうしてやりたくもないことをやるの」と不満で、大泣きして先生を困らせたこともありました。幼いながらも「ヘンだ」「どうして」という理不尽さを感じていました。

小学生になればもっと自由になれると思っていましたが、現実はちがいましたね。この理不尽への違和感はもっと強くなりました。

小1のころ、クラスの子が整列させられて移動するとき、移動中に列から離れる子や、それを怒鳴る先生を見て「またか」と思いました。

整列ぐらい単純なことをできない同級生にも、こんなささいなことで怒る先生にも、どちらにも違和感を持ちました。

そのとき、幼稚園のときに抱いた違和感が「これからもずっと続くんだなあ」と。

そう思いながらも、本音を出しちゃいけないと思いがんばってきましたが、小1の秋ごろ、「行きたくない」と親に言いました。
「ごたな子」だと言われてきて

――「行きたくない」と言ったとき、周囲はどんな反応をしましたか?
驚いたり困ったりしていて、それを見て私も驚きました。こんなに反発があるなんて、と。何より「不登校はダメ」という圧力はすごかった。

私は、幼いころ家族から「ごたな子だ」と言われていました。「ごた」は長野の方言で、やんちゃや乱暴という意味です。

ごたな子というのは要するに「わがままな子」。みんなからそう言われたことで、「このままの自分じゃダメなのかな」と思い、さらに不登校したい私の気持ちが強烈に否定されました。

それ以降、私は「本音を出しちゃいけない」と感じるようになったんです。

――不登校をしてから一番つらかった時期はいつごろでしょうか?

小6ぐらいで不眠の症状が出て昼夜逆転の生活を送っていた時期です。そもそも睡眠に関しては、いくつも悩みを抱えていました。

まずは幼稚園のお昼寝がトラウマになっていたこと。また父は「夜9時に子どもは就寝」という独自の教育方針も持っていました。

暗いなかで目を閉じると「このまま死んでしまうのでは」「目を閉じたら誰もいなくなってるのでは」という不安と、とはいえ「このまま眠らなかったら父に怒られる」という恐怖を感じていました。

さらに決定的だったのは、小5のときの祖父の死でした。実際の死を身近に感じたことは、当時の私にとってショッキングなことでした。

睡眠のほかにもうひとつ不安だったのは、身長が伸びてきて成長期に差し掛かったこともあり、身体の変化に気持ちが追いつけなかったことです。

徐々に大人になることへの不安感を感じる時期でしたし、こんな複雑な心境はまったく言葉にできませんでした。

「どうしよう」と不安に思ったり、イライラする日々が続き、生活リズムが大幅に崩れていき、不眠になってしまったんです。

――苦しい時期をどのようにすごしていましたか?

ふつうの生活ができなくなり、完全に不登校になってから家族も「これは学校へ行く、行かない以前の問題だ」とさすがに気がついたそうです。

そのころから自分の生活を「いかに学校へ行けるようにするか」から、「いかに気分や体調を安定させるか、機嫌よくすごせるか」という視点にシフトチェンジしていくことができたのは大きかったです。

そのために、自分が睡眠に困っているということにも、やっと意識が向けられるようになりました。

医師からの助けもありましたが、家族の協力は大きかったです。父は相変わらず不登校には否定的な見方だったと思いますが、何も言わず放っておいてくれたことも、私には大きかったです。

その後は、少しずつですが好きなことにも手を伸ばしました。当時は、絵を描くのが好きだったので、とにかく描くようにしたんです。
同じ立場の人と出会えることで

また、不登校当事者の集まりやフリースクールに参加したり、「ホームシューレ」(※)にも入会しました。

ホームシューレでは会報誌を通して、同じような立場の人と紙面で交流しました。まだ人に会うのが疲れる時期だったので、私にとってはこうしたつながりがよかったです。

ここでようやく落ち着いてきて、勉強を始められるようになりました。ホームシューレの学習サポートを受けながら「高卒認定試験」を取得して専門学校へ入り、現在は介護職に就いています。

――その後、不登校によって「苦労した」ということはありますか?

就職活動ではとにかく自信がなくて、そのときは不登校だったことを悩みました。

学校は勉強をするだけでなく「たいへんなことを耐える場」というイメージがあり、それを経験していない私って「どうなんだろう」、と。

小中学生時代の同級生は、たいへんな勉強もめんどうな人間関係もがまんして乗り越えたことで、どこか誇らしげで楽しそうに見えました。

「努力」や「協調性」とかを学ぶところが学校で、そこを出て初めて社会の一員として認められるんだと思っていました。

早々に離脱した私は認められない。就職をしたり社会に出たりできないんだと本気で信じていました。

だから就活がうまくいかないと「あのとき、もう少しガマンすればよかったのかな」とは思いました。

就活がうまくいかないのは、本当は不登校のせいじゃないかもしれないし、誰にでも悔いや未練はあると思います。でも、やっぱり「たられば」で悩んじゃうんですよね。

ただ、社会人になって思ったのは、不登校だったからといって苦労する場面はほとんどないな、ということ。

そもそも学生時代の話をする機会もないですし、私が不登校だったことを否定されたことはありません。

子どものとき「不登校は社会的に不利になる」と言われていましたが、今になってみると「本当にそうかなあ」と疑問に思っています。
時間がかかった本音の言語化

――今ふり返って自身の不登校についてどう思っていますか?

私が不登校によって苦労したのは、社会性や学歴ではなく、自分の本音が言えなくなってしまったり、自信をなくしてしまったことだと思います。

学校へ行きたくないという「本音」は言ってはいけないと思い続けてきからです。なので自分の気持ちや本音を言語化することには時間がかかりました。

今もまだ不登校をしたことって100%良いことだったとも、悪かったことだとも、はっきり自信をもって言えるわけじゃないんです。

だけど、それでいいじゃないかと。前よりずっと生きやすくなったのは、白か黒かはっきり決めずにいられるようになったことです。

何にでも正解かまちがいかの二択しかないと思っていて、グレーゾーンはない世界を生きていました。

不登校も良い・悪いの二択ではなくて、「ここは困るけどこれはよかったね」ということがたくさんあります。

これからも自分の経験として、迷いながら生きていくと思います。そのぐらいでちょうどいいのではないかと思えてきたことが、幸せだなと思います。
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学校はがまんするところ、だから学校にいけない自分はがまんが足りない。
学校は協調性を身につけるところ、だから自分には協調性がない。
学校に行きたくないことが、ことごとく自己否定に繋がってしまうのは不幸なことです。親もまたその理由がわからずに無理強いをしたり、途方にくれてしまうことが多いと思います。

でもそれは、社会と隔絶し、強制収容所と化した学校だからだと知れば、とらえ方は大きく違ってきます。自己否定する必要は全くなく、むしろ学校をどうする?という現実の課題へと目を向けることができるはずです。

子供も、当然親にも言葉にできない「学校に対する違和感」を構造認識で示せれば、多くの子供たちがもっと前向きに、活力を取り戻せるのではないでしょうか。

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