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ほめない、叱らない。共感しあう子育てで子供は生きる力をつけていく。

上手な子供の叱りかた、ほめて伸ばす子育て・・・叱るほどではなくても、ついつい口うるさくいってしまったりと、毎日の子育ては悩みに尽きません。

でもこういう悩みは「親としてかくあるべし」のようなイメージに縛られているから。親の正しいあり方などないのだから悩むのも当たり前です。

叱るのか?ほめるのか?
今回は子供との接し方について考えて見ます。

以下(https://courrier.jp/columns/114282/)より引用します。
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●根本は対等の関係
「ほめない」「叱らない」「対等に接する」というこの三つは、別々のことではありません。「子どもに対等に接する」ということが、子どもをほめないことであり、叱らないことなのです。

対等に接することができないのは、そもそも「対等である」ということが、どういうことかわかっていないのです。アドラーは次のようにいっています。

「仕える人と支配する人に区分することを頭から追い出し、完全に対等であると感じることは今もなお困難である。しかし、このような考えを持つことが既に進歩である」(『性格の心理学』より)

つまり、「対等である」というのがどういうことかを考えたことがない人が多いようにみえる。しかし、それが困難だと思えるのは「対等である」ことをわかっているか、少なくともそれについて少しは考えている、ということです。

「対等である」ということを理解するために、対等の関係ではほめたり叱ったりすることはない、ということをまずは知っておかなければなりません。

それでは「叱る」ことについて先に考えてみましょう。

子どもが何か問題を起こしたときでも、もし親が彼らを対等に見ているならば、どこが問題なのかを説明したうえで、改善を求めればいいのです。

それなのに、子どもを叱るのは「言葉でいってもわかない」と思っているから。つまり、相手を見下しているからです。

一方で、「ほめる」ことも相手を対等には見ていません。子どもはほめられたら喜ぶし、いい子になるではないか、という人は多くいます。しかし、子どもと自分が対等な関係であると思っている親は、子どもをほめることはできません。

幼い子どもが電車に泣いたり、グズグズいわないで長い時間乗れたら、親はほめるかもしれません。しかし、大人に対して「静かに電車に乗れて偉かったね」などとは、決していわないでしょう。

「子どもにはできない」と思っていたことができたとき、大人は子どもをほめます。それは、子どもからすれば「自分にとっては難しくないことなのに、できないと見られていた」ということになります。それを子どもが知れば、馬鹿にされたと思うはずです。

●自分の価値を見失う
叱られたりほめられたりすると、自分に価値があると思えなくなるのが、第一の問題です。

いま犯したばかりの失敗について叱られるのであれば、自分に非があるので仕方がない、と考えるかもしれません。

しかし、「何をやらせても駄目だ」とか「いつも失敗ばかりしているではないか」というような、職場であればパワハラ以外の何ものでもない叱責を親から受ければ、子どもは人格を否定されたと感じ、自分に価値があるとは思えなくなるでしょう。

また、「ほめる」ということは「子どもにこうなってほしい」と条件づけることです。つまり「こんな子どもは認める。でも、こんな子どもは認めない」ということを宣告することになるので、親からほめられない子どもは、自分を過小評価するようになります。

自分に価値があると思えなければ、勇気を持てません。ここでいう「勇気」とは、仕事(子どもであれば勉強)に取り組む勇気、対人関係に入っていく勇気です。

勉強は子どもの課題なので、自力でするしかありません。もしも勉強しなければ、その責任も子ども自身が引き受けるしかありません。ですから、親が子どもに勉強させることはできないのです。

それでも子どもを叱れば、自分には価値(能力)がないと思った子どもは意欲を失い、いよいよ親の期待に反して勉強しなくなります。

また、自分を卑下してしまう子どもは、対人関係に入っていこうとしなくなります。人と関われば嫌われたり、憎まれたりと、傷つくような経験を避けることはできません。

しかし、それを恐れた子どもは、親から叱られて「自分には価値がない」と思ったことを逆手にとり、「自分には価値がないから人と関わらないでおこう」という決心──たとえば、学校に行かないでおこうという決断──を下します。

そして、親は子どもが登校拒否をすれば、たちまちパニックに陥ります。

対人関係のなかでは傷つくこともありますが、それでも幸福を感じられるというのも事実です。子どもの幸せを願わない親はいないと思います。しかし、親の行動はその願いとは裏腹のものです。

親は、叱ったりほめたりすることで、子どもが受ける影響を理解せずに、彼らのためにならないことをしているのです。それをわかっていれば、叱ることもほめることもできないはずです。

ですから、「実践できない」という前に、自分がしていることの意味を理解することが先決です。

●自発性が奪われる
次に、ほめられたり叱られたりして育った子どもは、叱られなかったら、あるいはほめられなかったら、自分がしていることに価値があるのかどうかを自分自身で判断できなくなることが問題です。

本来、自分がしていることの価値、自分自身の価値は自分で認められなければなりません。それが正しいかどうかは、叱られる・叱られないに関わらず自分で判断できなければならないのです。

叱られなければ問題行動をやめない、叱られたらやめる。ほめられたら頑張る、ほめられないと何もしない、というのでは駄目です。

叱られて育った子どもは、“いい子”かもしれません。しかし、彼らは絶えず親の顔色をうかがい、自分からは積極的に行動しなくなります。

●依存させたい親
第三に、上記と関連して「叱ること、ほめることをやめられない」という人の一番の問題は、子どもを自分に依存させて、優越感を抱きたいと思っている点にあると考えています。

子どもが自分のいうことを聞き、子どもの行動を評価できれば、嬉しくてたまらないのです。

そのような親も小さいときから叱られ、ほめられて育ってきたので、自分の価値を自身で認められなくなっています。

叱られ、ほめられて育つと、他者と競争するようになります。きょうだい関係についていえば、親に叱られずほめられることで、他のきょうだいよりも上に立とうとします。ほめられたら優越感に浸ることができました。

勉強や仕事は本来、優越感とは何の関係もないことですが、このように育った人は、やがて自分の価値を競争や上下関係でしか考えられなくなります。

ですから、仕事に自信が持てず、部下から自分が無能であることを見透かされるかもしれないと恐れて、仕事とは関係のないことで理不尽に部下を叱りつけます。部下の価値を貶めることで、自分が優位に立とうとするのです。

家庭でも、子どもから尊敬されていないと思っている親は、叱ったりほめたりして子どもを依存させることで、自尊心を満たそうとしているのです。

「ほめない」「叱らない」「対等に接する」ことを実践できないという人は、「できない」のではありません。ただ、実践したくないのです。

なぜなら、そうすることは自分の優位性を危うくするからです。
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叱るのもほめるのも自分の優位性を保つため。というと見も蓋もありませんが、親の都合や、世間体で叱ってしまう経験は結構ありそうです。

ただ親と子、大人と子供という枠にとらわれていると「対等に接する」ことは難しいように思いますし、どこか他人行儀な感じもします。対等のもっと大元にあるお互いが「共感」し合う子育てで、子供は生きる力を身につけていくのだと思います。

 

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