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3歳児にナイフ、裸で散歩! 子供を放つドイツの「森の幼稚園」

幼児期の子供にとって大切なのは早期教育などではなく自由に、自然の中で遊ぶこと。

この考えに基づき、日本でも「森の幼稚園」がいくつも誕生しています。今回はその本家とも言えるドイツの幼稚園を紹介します。

気温は氷点下。そんな中で子どもたちはどんなことを学んでいるのでしょうか。

以下(https://courrier.jp/news/archives/88751/)より引用します。
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ある金曜日の早朝。霜が溶け、太陽が完全に昇る前に、ベルリン北端部のパンコウ区の鬱蒼とした市営公園に、小さな子供たち20人が集まった。

空も地面も灰色だったが、子供たちの頬も雰囲気も、きらきらと輝いている。車が音を立てて走る数m先では、彼らが輪になって走ったり、嬉しそうにきゃあきゃあ叫んだり、凍った地面の上を転げ回ったりしている。

親たちは寒さに震えながら、これから始まる1日のことで頭がいっぱいで、子供たちに目くじらを立てることもない。彼らはぼんやりと笑みを浮かべつつ、ステンレス製の携帯用マグカップに入ったコーヒーをすすっている。

「カッコウ! カッコウ!」

40代前半の男性のピッコ・ピータースが鳥の鳴き声に似た大声を出すと、子供たちは集まって小さな輪になった。元気いっぱいにドイツ語と英語で次々と歌を歌い、最後は狼の遠吠えで締めくくる。

その後、3?6歳までの年長組15人は、交通量の多い交差点に向かって歩いた(年少組は公園に残った)。列を先導する女性、クリスタ・バウレのリュックサックからは、長さ1mほどの枝が危なっかしく飛び出ている。列の最後尾にはピータースがついた。

ずっとおしゃべりをしていた子供たちは、公共バスが来ると黙って1列で乗車していく。10分後、バスが広さ84エーカー(約33万平方m)の公共公園の入り口で停まった。子供たちは降り立ち、やがて縦横無尽に駆け回りはじめた。
●認知能力も身体能力も優れた子供に
2005年に開園した「ロビン・フッド 森の幼稚園」は、ドイツに1500以上あるヴァルドキタ(森の幼稚園)の1つだ。

ヴァルドキタは、ベルリンだけでも約20ヵ所ある。そのほとんどはこの15年間にできたもので、たいていは市の公園にあり、公園内の簡素な建物を本部として使っている。

だが、なかにはロビン・フッドのように、公共の交通機関を使って子供たちを毎日自然の中へ連れていき、天候にかかわらず1日の大半をそこで過ごすような園もある。一般的に、ヴァルドキタではおもちゃ類を重視していない。代わりに棒や石、葉っぱをいろいろなものに見立てて遊ぶのだ。

2003年に発表されたハイデルベルク大学のペーター・ハフナーの博士論文では、森の幼稚園の卒園生は、通常の幼稚園の卒園生に比べて「明らかに優れて」おり、創造性や社会的な発達はもちろん、認知能力や身体能力の面でも成績がいいことが明らかになった。

外遊びや実体験に基づく学びを重視するヴァルドキタの教育理念は、もともとは北欧を起源とするものだ。しかし、ある教師は「北欧ではドイツほどもてはやされていない」と言う。森の幼稚園が、ドイツ発祥でないというのは意外だろう。なぜなら、公費で運営され、森を主な活動拠点とする幼稚園以上に「ドイツ的」なものなど、ほかには見当たらないように思えるからだ。

国土面積との比率でいえば、ドイツは米国の約3倍の自然保護区を有している。これはドイツが、自然そのものや、自然が国民の精神の健康維持に果たす役割を非常に重視していることを示している。ピータースは森を指しながら言う。

「いまの子供はテクノロジーにはとても詳しいけれど、窓の外にいる小鳥のことは何も知らない。これはとても怖いことです」

その口調は、ゲーテからベートーベン、ビスマルクに至るまで、森で過ごす時間が心を豊かにすることを熱く語ったさまざまなドイツの偉人を思い起こさせる。彼はさらにこう話す。

「人生では悪いことも起こります。仕事やパートナーを失ったり、みんなに嫌われたり。でも、自然はいつもそばにいてくれるのです」
●鳥の死骸も「教科書」
午前9時ごろ、ぞっとする光景を見つけた1人の子供が、バウレを引き留めた。「あら」と彼女は言い、子供たち全員に手招きする。

バウレが指したモミの木の下の地面には、黒い羽の塊が落ちていた。バウレは、「誰がクロウタドリを『殺した』と思う?」と訊いた。小さな男の子が「たぶんキツネのしわざ」と言う。

園長でもあるバウレは、大げさに考え込むような素振りをして「いいえ、違うわ」と言った。

「羽の軸がきれいでしょう?」

さっきの男の子が羽を触ってうなずく。

「これは引き抜かれたということね。つまりキツネではなく、肉を食べる鳥に殺されたの」

彼女は汚れた羽を拾い集めて、1枚ずつ子供たちに渡していった。鼻水を垂らした落ち着きのない女の子は、いらいらしながら身体を前後にゆすっていたが、ようやく羽をもらうと、きゃあっと歓声を上げた。

それから数分も経たないうちに、子供たちは広さ10エーカー(約4万平方m)はある一帯に散らばって遊びはじめた。石から飛び降りる子もいれば、丸太を引きずって湿地を歩く子もいる。ほとんどの子が、温室の軒下から落ちた汚い氷柱をしゃぶっていた。

●おもちゃがなければ喧嘩も減る
「ロビン・フッド」では、大人の目の届かないところに行ってもいいが、声が聞こえないところに行ってはいけない決まりだ。「隠れて何かをすることは、子供の発達にプラスになるんです」とピータースは言う。

だが、彼が「カッコウ」と叫ぶと、皆どんなに危険なことをしていても、きちんと戻ってくる。私が同行した日、子供たちは高さ3mはある木に登ったり、大人の見ていないところで凍った池の上を滑ったりしていた。ペータースはこう話す。

「以前は、ごくシンプルなロープのようなものを用意していましたが、すぐにそれも必要ないとわかりました。おもちゃがないことで喧嘩も減るし、子供たちも分け隔てなく遊ぶようになるんです。自分が遊びたいなら、どうしても友達が必要だとわかるんですね」

そのとき、ペータースが凍った葉っぱを摘んだ。それがオオバコだったと私が知ったのは、あとになってからだ。

「これをバンドエイド代わりに使うんですよ。ちょっと潰して傷口に塗ります。天然の抗炎症薬ですよ」

●静寂の中で朝食を
森での朝食の場所が決まるころ、子供たちの爪は土で真っ黒になっていた。とても寒い日だが、文句を言う子はいない。

皆でリュックサックを輪の形になるように置くと、それぞれが別々の方向に走っていって、大人の手助けなしに自分でスノーウェアを脱ぎ、こっそり用を足した。戻ってくると、リュックサックから新鮮な食べ物がいっぱい入った小さなタッパーウェアを取り出す。

5歳にもならない2人の女の子は、木のトレーの上に果物を並べ、凝った曼荼羅を描きはじめた。まず、真ん中に輪切りのにんじんを重ね、その周りにオレンジと輪切りのピーマン、細切りのきゅうりの輪をそれぞれ作った。トレーの隅にはヤシの実を置き、別の隅にカットされたりんごを並べ、反対側にクルミを散らした。

バウレは食べ物を「きれいに」並べなさいと言っただけで、それ以上は口出ししなかった。女の子たちはこの作業をゆっくりと無言で続け、並べ方が気に入らないときはやり直した。そうやって完成した盛り付けは、レストランで出てくる料理のような美しさだった。
いつもと同じく、この日も完璧な静寂の中での朝食だった。子供たちは1つずつ果物を取りながら、全部なくなるまで、次の人に静かにトレーを回していった。「食事中に物音をまったく立てなければ、鹿が来るかもしれない。少なくとも鳥の鳴き声はよく聞こえるよ」と何ヵ月も言われてきたからだ。

45分以上も、忍び笑い1つ起きなかった。食事が終わると、バウレは子供たちに遊びに行っていいと告げる。とたんに笑い声や叫び声が上がり、子供たちは森の中へ消えていった。

●保育料は公費で
数こそ少ないものの、米国や英国にも森の幼稚園はある。規律を重んじる教育で有名な日本や韓国でも、その人気は高まっている。評判は、主に親の口コミで広まる。

ドイツでは、森の幼稚園に子供を通わせるのは、裕福な家庭や一風変わった家庭だけではない。ベルリンの他の幼稚園と同じく、ロビン・フッドでも、2~6歳の子供までは保育料が公費で賄われる(ただしロビン・フッドは私立幼稚園なので、月に100ユーロかかる)。一方、ニューヨーク市の幼稚園の保育料はおよそ年間約4万ドルもする。

ロビン・フッドの話に戻ろう。氷点下に5時間半もいたにもかかわらず、私以外の誰も屋内に行きたがらなかった。子供たちは、観葉植物と木製の砦があちこちにある3部屋だけの簡素な園舎に戻ると、たちまちブーツとスノーウェアを脱ぎ捨てた。

そのとき突然、彼らの本当の姿が現われた。体がとても小さいのだ。どの子も見た目が60%くらいに小さくなった。

●3歳児にナイフ、裸で散歩
子供たちは昼食をとるため、長テーブルが用意されているプレイルームに走っていった。陶器の皿にはサラダとポレンタ(トウモロコシ粉のおかゆ)が盛ってあり、皆きちんとしたカトラリーを使って貪るように食べている。

とくに落ち着きのない1人の男の子だけが「ちゃんと座りなさい」と優しく5回注意されていた。デザートには、昨夏に子供たちが摘んだエルダーベリーで作ったジュースがコップで配られた。

昼食のあと、バウレはここ数年間の写真がたくさん載ったアルバムを見せてくれた。何人かの子が興味津々でやってきて彼女の膝の上に座り、「赤ちゃん」のときの自分たちを見て喜んでいた。

ある写真では、3歳くらいの亜麻色の髪の男の子が、折りたたみナイフで木の枝の皮を剥いていた。別の写真では、さっきとは違う男の子が丸太でクルミを割っていた。3枚目の写真では、裸で泥まみれになった4人の子供たちが砂利道を歩いていた。

ふいに、クッションと本が並んだ園舎の温かい室内が息苦しく思えてきた。子供たちにはあと1時間ほどでお迎えが来るが、私は先に失礼することにした。タクシーを拾ったが、5分もしないうちに後悔した。

私は車の窓を全部下げて、頭を外に突き出した。
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子供たちにとって、寒くても自然の中でのびのび遊ぶことがとても自然なこと。一方多くの日本の子供たちが、暖かい安全な空間に閉じ込められている現実の方がとても不自然なのだと思えてきました。

子供は自然。生きる力の根本は、本能と好奇心、仲間との遊び、そして自然から様々な知恵を学ぶこと。現在の子育てで決定的に欠けていることなのだと思います。

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