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文字を色で感じ、音を匂う~共感覚の可能性。

文字が色つきで見えたり、言葉を匂いつきで感じたりする共感覚を持つ人がいます。1000人に一人とか100人に一人とか言われていますが、幼児の多くはこの共感覚を持っているそうで、大きくなにつれてこの感覚は無くなっていき、文字は文字、言葉は言葉としか認識できなくなるのだそうです。

今回はこの共感覚について考えてみます。

以下(http://www.abiroh.com/jp/sensitive-human/1065.html)より引用します。
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人間は成長にしたがって感覚が発達し、肉体の成熟とともに感覚の能力もピークに達するといいます。その後は経験とトレーニングによって感覚は磨かれますが、基本的な能力は減衰する一方です。確かに言語をめぐる感覚や、渋味や苦味などを味わう感覚は、成人の方が豊かであるようにも見えます。

しかし絶対音感は生来のもの、あるいは幼児期に獲得できるものであり、外国語の習得もスタートが早い方が有利であるともされています。ちなみに絶対音感は、必ずしも「絶対的」な音感ではなく、また環境音まで西洋音楽の十二平均律に「翻訳」してしまう傾向があるなど、一概に音楽的に優れた能力であるとは言えないようです。また母語習得前に外国語を学ぶことへの弊害も指摘されています。

?我々は、たとえば日本人ならば同じアジア人であっても、インドの人々の顔だちは皆、同じように見えてしまいます。逆にインド人にとっては、日本人の顔は似たり寄ったりに見えているはずです。最近では多くのメディアによって欧米人の顔に馴染んでいるため、欧米の俳優や政治家の顔の区別はできるようになっていますが、江戸時代の日本人にとっては、白人は一様に、赤ら顔の鼻の極端に尖った人たちに見えていました。

また動物園の猿山のニホンザルをその顔で区別できる人は、当の飼育員でない限りほとんどいないと言っていいでしょう。かろうじて毛色や大きさや傷の有無などで判別できるくらいです。ところが多くの幼児は、この猿山の猿たちの顔を見分けることができます。この例では、成長にしたがって、すなわち人間社会に馴染み、言葉によるコミュニケーションに習熟するにしたがって、猿の個性が見分けられなくなっていくわけです。

どうやら我々の一般的な感覚は、本来の能力にフィルターをかけることによって成立しているようです。いちばんのフィルターは、言葉です。職人たちの超絶的な感覚は、収斂によって研ぎすまされるのと同時に、このフィルターをあらためて剥ぎ取ることで獲得されているのかもしれません。

?確かに言葉は、脳に保存されている膨大な感覚の記憶をプログラムし、オペレーションするための有効な道具でした。それによって人類は文明を獲得したと言うこともできます。しかし言葉の獲得に続いて文字が発明されると、我々の感覚にはさらに強力な拘束がかかり、同時に感覚の中で視覚が圧倒的な優位に立つことにもなりました。もしかすると絶対音階、あるいは平均律も聴覚への何らかの拘束になっているのかもしれません。

犬や猫、鳥や魚などの動物たちがときに地震や天候の変化を予知することができるのに、人間がそれを苦手とするようになってしまったのは、言葉によって生来の感覚に蓋をされてしまったためなのでしょう。方向感覚や時間感覚も、文明や科学技術によって鈍化している可能性があります。
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こどもの成長は、人類の進化過程を辿っている。とすれば、人類が言葉を話すようになり、文字を発明したとき、それまでの先端感覚だった嗅覚や色覚を動員して新しい情報を認識しようとしていたのかも知れません。

共感覚についての研究はまだあまり進んでいないようですが、レオナルドダビンチも共感覚の持ち主だったと言われており、数学者のファインマンは数式を思い浮かべると色がついて見えると言っていたそうです。

感覚を研ぎ澄まして追求する過程で、この共感覚は創造性や思考の深さにプラスの影響を及ぼしている可能性が考えられます。

共感覚をもつ子供たち。言葉や文字で豊かな感覚機能に蓋をすることなく、その感性を伸ばしていくことができれば・・・色々な可能性が広がっていくような気がします。

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