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江戸時代の農民が「教育熱心」だった理由

江戸時代の日本人の識字率は世界一だった。
といわれますが、なぜ日本人はこれほどまでに教育に熱心?だったのか。

今回は子育ての歴史研究から、江戸農民の教育事情について考えてみましょう。

以下(http://news.livedoor.com/article/detail/14191138/)より引用します。
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江戸時代の農村は日本史上、もっとも子育てしやすい環境だったというが「勉強しなさい!」と活を入れる教育ママはいたのだろうか? 子育ての歴史研究者が意外な事実を明かす。
■子供を「大人4人」が教育し世話をした
「教育ママ」を定義するのは難しいですが、1つには「近代化の産物」といえるでしょう。身分制度が揺らいで流動性が高まり、多くの人が、社会的な地位を上げることが可能になった。競争社会に参入する人が増え、勉強すれば勉強するほど、カネや権力を手に入れられると考えることのできる時代が来たのが近代という時代です。

さらに、働き方という観点もあります。明治時代になると、人々が都市に集住し、父親が企業や役所に働きに出るかたわら、母親が専業主婦として家事・子育てを一手に引き受けるようになった。そうして「ワンオペ母親」が誕生し、子供を厳しく教育し、躾を行う「教育ママ」が広まっていったといえるのです。

それでは、江戸時代の人々は、近代以降に比べて教育を疎かにしていたのでしょうか。また「教育ママ」はいなかったのでしょうか。そうではありません。教育そのものの目的が違っていたというのが正しいでしょう。

周知の通り、江戸時代は身分・階級が固定化されていました。ただ、一定の幅の中では能力のあるものが出世し、下級士官がより高い地位の官吏になったり、学者として取り立てられたりすることもありました。ですので、武士の家では、わが子の成功を願って、論語だったり剣術だったりの教育に熱心になる親がいましたし、「教育ママ」もいたかもしれません。

しかし、基本的には、特に農村では「親の家業を継ぐ」ことが当たり前であり、そのための教育がされていたのです。

平和が長く続いた江戸時代の農村は、日本の歴史上でも例外的といってもいいくらい、子育てがしやすい環境にありました。どこの家庭も子供は1~2人で、息子が結婚して嫁を迎え、家に残る直系家族が多かった。娘はよその家へ嫁に行く。家族の形態としては、(長寿に恵まれた家では)祖母と祖父、父と母、子供が2人、という形が一般的になります。つまり、5~6人の家族だと、子供を見るための大人たちが4人いることになります。教育の手綱の引き具合に余裕があったんです。

さらに、当時は村落という共同体が一体になって、子供を育てていた。もちろん、村落の中で監視されるような息苦しさもあったでしょう。しかし、子供をしっかり育てないと、という規制力が働くという利点もありました。

■村に逗留した儒学者や算法法師、修験者に教えを請うた
では、農村の教育で、「教育ママ」はいたのか。はっきりいうと難しかったでしょう。理由としては、女性の結婚・初産の年齢の平均が、20~23歳前後だったことが挙げられます。対して、夫のほうは30歳前後から30代半ばが平均。現在の年齢の感覚と比べることは難しいとはいえ、20歳のいわば少女である未成熟な母親が口を出すことは難しかったでしょう。

ですので、より主体的に教育にかかわったと考えられるのは、直系家族でいう祖母のほう。自分自身の子育てが終わり分別もついた、教育ママならぬ「教育ババ」が誕生していた、と考えることができます。「教育ババ」といっても、50歳くらいの年。現在の感覚だと十分子育て世代です。

さて、農村で行われる「教育」とはどのようなものだったのか。江戸初期では、基本的には家業についての教育です。農家であれば田植えの仕方や畑の耕し方、山に入って薪を集める仕事を教える。漁村であれば、船の扱いや釣りの仕方、波の読み方を教えるということが主でした。農村の仕事は重労働ですので、中心を担うのは男で、男親から息子への教育が基本。女性は、田畑で働く男たちに弁当を持っていくなど、支える側の仕事が多かったと考えられます。

この時代の教育は競争に勝つというよりは、1つの家内で行われる伝承が中心だったのです。

とはいえ、外からの知識を手に入れる教育の機会もありました。代表的なものは、寺院です。和尚が、教訓話や生活の知恵などを教えていた。また、武士や商人ほど頻繁ではありませんが、寺子屋や手習い塾に通う子供もいました。

ほかにも、儒学者や、和算を教える算法法師、修験者などの知識人が移動中に村に逗留することがあり、彼らを宿泊させる代わりに、教えを請うこともありました。

江戸時代には本屋が各地を回って本の商いを行っていました。

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競争ではなく伝承のための教育。

その中で育まれた好奇心を起点にした寺院や寺子屋での学び。儒学者や、和算法師、修験者などの知識人から教えを請うなど、強制ではなく自ら進んで学ぼうとしていた姿が見えてきます。

明治に日本を訪れた欧米人が、なんでも学んで身につけようとする日本の庶民を見て、その好奇心の大きさに驚いたという記録は沢山あります。

競争や競争ではない、人本来の好奇心が育まれていたのが江戸時代の教育だったのではないでしょうか。

 

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