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「不登校」は現在の学校制度の破綻を教えてくれる子どもたちからのサイン。

昔のような学校の権威は過去のもの。
学校で身につける学力は社会にでれば何の役にもたたないことは誰もが知っています。
社会性を身につけるためといわれる学校での集団行動も、いじめやスクールカースト、理不尽な校則や学級指導で歪んだものになっています。

どう考えても今の学校はおかしい。
今回はそのおかしな学校の背景を探ってみます。

以下(https://futoko.publishers.fm/article/18302/)より引用します。
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 わが国に学制が敷かれたのは1872年、いまから150年近く前のことです。1世代を25年とすれば、子どもから見て父母、祖父母、曾祖父母……と、学制が敷かれたのは6世代前までにさかのぼります。いまでは「学校」という場は、あたり前のものになっていますが、それでも人間の長い歴史のなかで見れば、150年というのはほんのわずかな期間です。それに、その最初の100年とここ50年とを比べれば、「学校」という場の持つ意味がずいぶんと変わってきました。むかし学校は地域の知的情報の権威で、先生は村や町の名士として周囲から「エライ人」だと思われていました。また、子どもたちにとっても、学校に行かなければ味わえない体験がありました。
特別だった学校

 私が子どもだった60年前には、特別に裕福な家庭をのぞけば、家のなかに本らしい本などはほとんどなく、新学期になると教科書を買ってもらえることが喜びでした。

 学校には図書室があり、一生かかっても読みきれないほどの本が並ぶ特別な空間でした。

 あるいは音楽の好きな子にとっては学校でオルガンやピアノを弾けることはなによりの楽しみでした。

 そういう意味で言えば、いま学校でしか味わえない体験は、同一学年で輪切りにされた集団行動以外に、ほとんどなくなっているのかもしれません。

 文字の習得なども、かつては学校でやるしかありませんでしたから、家の都合で学校に行けなかった子どもは、ほとんど非識字の状態のまま大人になりました。いまは不登校だからといって文字の読み書きができない子どもはほとんどいません。文字に触れる体験がぐんと早くなり、学校に上がるまでに、ほとんどの子どもたちが文字の世界にどっぷり入りこんでいます。なにしろ、ネット空間で遊ぶにしても文字情報が基本ですから。
学校の目的は学力向上?

 一方で、「学校」の周辺に、いまほど「学力向上」とか「学力保障」という言葉が蔓延した時代はありません。小・中・高・大という学校教育制度のはしごを順調に、より高く上れるかどうかが、その人の人生を左右するかのような空気が世の中をおおい、「学校」は学力を競って勝ち残るための手段であるかのようです。

 現に学歴を確保してしまえば、身につけた学力はもう御用済みとばかり、剥げ落ちてもかまわれません。こうした「学力」が世の中を牛耳っているというのは明らかに「錯覚」です。でも、この錯覚の恐ろしいところは、みんなが錯覚すれば、その錯覚が世の中を左右するというところです。

 こうしたなかで、素朴に「どうして勉強しなければならないの?」と言いはじめた子どもにとって、勉強は苦役となり、「学校」はむかしとはちがう意味で「エライ(しんどい)」ところになってしまいます。

 いま「不登校気分」に陥らないことは、親にも子にも難しい。むしろ「不登校」こそ、世間をおおっている錯覚から抜け出すための最大の手立てだと開き直ったほうがいいのかもしれません。私たちは学校の意味をあらためて問う時代を生きているのです。
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学歴という階段を上がるため、学力向上という名目で役に立たない勉強をする。皆がこれを当たり前と信じていること自体が大きな錯誤だと思います。このおかしさに気付き始めたのが、子どもたちの「不登校」であり、従来の学力信仰の無意味さを私たちに教えてくれているのかも知れません。

そして、いま学校にしかない唯一の活動である集団行動。こちらは社会性を身につけるためと称して、その必要性を信じている人も多いと思いますが、そこにも大きな錯誤があるのです。

以下(https://blogs.yahoo.co.jp/tut1118/10138096.html)より引用します。
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教育基本法の第二条の教育の目標の中で、教育は「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」と述べられている。しかし、実態としての教育制度の運用場面においてこの様な態度を養う制度運用がなされているのだろうか。学校という空間が子どもにとって如何なる特性を持つのか。学校という空間における人間関係の形成・集団としての特異性について考察する。
(中略)
≪学校空間の特異性≫
 学校という空間がどの様な特異性を持っているかは、比較対照として企業を例に取るとその差が明確になる。企業は参加者集団として利潤追求という目的があり、その中で個人はある役割を持って働く事となる。しかし、学校は生徒集団として何ら目的を持っていない。それは教育サービスの対象が生徒個人の変容にある為である。生徒は強制的に集団としての枠組み(クラスなど)を設定されているにも関わらず、そこに帰属する意味を与えられていない。生徒は集団としての目標を持たない為、何らかの役割を持つ事も無いのである。
 先に、社会において何らかの役割を持つ事は、個人のアイデンティティ形成において重要だと述べた。しかしながら、生徒は学校空間において社会的な役割を持たない。この様な状態において、生徒は友人関係に自分のアイデンティティ形成のエネルギーを注ぐしか無い。特に、学校以外に社会集団の成員として存在する時間を持っていない子どもは、そこに自分のアイデンティティの地盤を持たざるを得ない。生徒が、友達と話す場としての学校機能を強調する理由はここにある。
 集団としての目的を持た無いにも関わらず、生徒は集団として集められているのが学校空間である。この様な空間で生徒集団が惰性的に存在しているのである。
 
≪制度運用と実態≫
 以上の考察からすれば、教育制度によって規定されているものと学校で実際に運用された時の実態とは乖離があるように思える。役割が無いのに社会の中で必要とされる役割意識が育つのか、という話である。当然、無い袖は振れない。社会を形成する意識を高めるのであれば、学校空間において生徒の何らかの役割をデザインするという視点が必要になると考える。
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個人の目標とされる「学力」は何の役にもたたない。一方で集団としての目標もない。なにももない中で友人関係のみが学校での最大課題になり、いじめやクラス内カーストなどを生み出しているのが現在の学校です。

不登校は、現在の学校制度が時代や社会の変化に対応できずに子どもたちを閉塞に押し込めているだけという現実を教えてくれる子どもたちからサインなのだと思います。私たちは不登校を問題にするのではなく、学校制度の在り方を問い直さなければならないのだと思います。

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