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小学校でプログラミング!?~母語で考える力=論理力こそが必要。

社会のIT化がますます進む中で、2020年から小学校でプログラミングの授業が必修化されることが決まったようです。

業態が大きく変化し、ITに関わる仕事が増え、それに関わる技術者不足が予測される。子どもたちが将来適応できるように、今のうちから基礎的な知識を身に付けることが狙いのようです。

またぞろ世間では、電子キットやプログラミング教材が発売され、プログラミング教育が注目されつつありますが、何か違和感があります。

小学生から一律でプログラミングを学ぶ必要が本当にあるのか?
もっと大事なことがあるのでは?

今回は小学校でのプログラミング必修化について考えてみます。

以下(http://asread.info/archives/3360)より引用します。
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読売新聞の社説のレベル
 小学校の授業で、野球を必修化すれば誰でもイチローになれる。サッカーなら本田圭佑に、相撲なら白鵬。将棋なら羽生善治で、乗馬なら武豊に・・・それが可能と考えているかの文部科学省。小学校において2020年度から「プログラミング必修化」がスタートします。

 読売新聞は2016年5月17日の社説を

“プログラミング 必修化を創造力育てる一助に”

 と掲げ、「子供たちが早い時期からプログラミングになじむことで、IT分野で世界的に活躍する人材の輩出も期待できるのではないか」と語りますが、創造をかたちにする技術の1つがプログラミングであって、プログラミングを学んだから創造力が生まれるのではありません。

 私は都立普通科高校卒業ながら、叩き上げの元職業プログラマー。いまでもプログラミングしており、小学5年生で出会った「BASIC」から数えれば経験は30年を超えます。だから断言します。プログラミング必修化は国力の低下を招きます。
プログラミングとは何か

 コンピュータにおける作業手順や命令書といった中身がプログラム、書き記す作業をプログラミングと呼びます。プログラミング必修化の最大の問題点は、プログラミングにはある種の才能が不可欠ということが一切語られていないことです。

 プログラミングとは、プログラミング言語毎の「文法」に則った「作文」です。プログラムは全て日本語に翻訳でき、自然言語に置き換えられないプログラミング言語は呪いのたぐいのオカルトです。

 日本の公立学校では読書感想文、卒業文集など「作文」は必修ですが、誰もが小説を書けるようにはならず、営業日報程度の作文でさえ苦手とする人が少なくありません。運動センスの違いが明らに現れる「逆上がり」や「跳び箱」のようなもので、作文やプログラミングには得手不得手があるのです。そして体育や、作文を含む国語の授業では、他のカリキュラムで埋め合わせも可能ですが、必修により教科化された「プログラミング」に逃げ道はありません。悪い成績が児童の自信を奪い、教科への苦手意識を植え付けることは、分数や英語の授業が証明していることです。
東ロボくんの嘆き

 プログラミングは「作文」。本当に国民に「プログラミング」を身につけさせたいのであれば、今以上に「国語」の授業に力を注ぐべきなのです。別の角度からまったく同じ指摘をするのが、東大合格を目指す人工知能「東ロボくん」プロジェクトの陣頭指揮を執る国立情報学研究所の新井紀子博士。2016年5月25日の読売新聞の取材にこう答えています。

“英語教育の充実やプログラミング教育の導入を言うならば、まず日本語を何とかするべきです。(略)プログラムに求められる機能を記した仕様書が読めなければしょうがないですよね”

 新井博士は、人工知能開発の過程で、中高生の読解力低下を発見します。知識がなくとも、読解力だけで解ける、括弧を埋める四択問題の正答率が、入試を経験した公立高校生でも3割だったのです。
教育行政は失敗ばかり

 その問題がこちら。

《【問い】アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。セルロースは(  )と形が違う。A:デンプン、B:アミラーゼ、C:グルコース、D:酵素

(出典:東京書籍・高校生物基礎教科書『新編・生物基礎』、読売新聞より孫引き)》

 正解はデンプンですが、公立高校生の57%が「アミラーゼ」、公立中学生の53%は「グルコース」と誤答。いまどきの中高生の読解力が、そこまで低下しているならプログラミング教育以前の教育行政の失敗です。教育行政の失敗は「ゆとり教育」が有名ですが、平成15年度(2003年)から「情報」と題したパソコン関連の授業が「必修」となっています。ところが、年々、パソコンが使えない新社会人が増えており、ここでも教育行政の失敗を確認できます。

プログラミングの宿命的構造

 プログラミングの必修化は、文科省の失敗の歴史を加筆すると予言できます。なぜなら、プログラミングの授業時間を確保するために、別の教科を削減しなければならないからです。正答率3割とは、7割の中高生の読解力に問題があるという状況下で、国語が削除されるなら論外ですし、その他の教科についても同じです。それは、プログラミングがプログラマーの知識の枠内を越えることが出来ない、宿命的構造を持つからです。

 中高生が3割しか答えられなかった問題文を、プログラム風に翻案すると以下になります。
if ( アミラーゼで分解できる ){ デンプンである }
else{ セルロース、あるいはデンプン以外 }

※「if」は「もしも」で、括弧内にある条件を満たしていれば、それ以下の処理を実行し、「else」は「それ以外」。この表記は多くのプログラミング言語で用いられている条件分岐の文法

 問題文では、条件を提示してから結論へ至りますが、結論を踏まえて条件を用意するのがプログラミング。つまりプログラミングとは、プログラマーの知識や発想、論理力の枠内に限定される宿命を抱えているのです。プログラマーが平方根や三角関数を理解していなければ、それを使うことはできず、「アミラーゼはデンプンを分解できる」という知識がなければセルロースと区別するプログラムは作れません。だから、予言するのです。失敗すると。

児童にショベルカーは不要

 コンピュータやプログラムの仕組みを教えることに反対しているのではありません。先の「情報」の授業を拡大するなり、「生活」のカリキュラムにITトリビアを追加するならむしろ賛成します。また、希望者がプログラミングを学べる仕組みなら大歓迎です。読売新聞は必修化の課題として「教師がいかに知識や技術を習得するか。必修化に向けた日本の最大の課題だろう」と心配してみせますが、この発想が時代遅れ。オンラインで繋がった「クラブ活動」なら、それぞれの学校にエキスパートは不要です。

 しかし、家庭科の調理実習で鱧の骨切りや、技術の時間にショベルカーの操作を教える必要がないように、プログラミングという「特殊技術」を、望んでもいない児童生徒へ強制する必修化に反対しているのです。

未来志向の落とし穴

 プログラミング教育推奨派が、論拠とするのは「これからの時代」というもの。これは漠然とした精神論。コマンド入力がマウス操作となり、ブラインドタッチはフリック入力から、音声認識へと変化するように、より便利・簡単へと、メーカーは日夜開発を続けており、より高度化しつづける「特殊技能」のプログラミングが、小学生の「授業」で身につくわけがありません。一方で、プログラミングを支える基礎知識を身につけるためのその他の授業が削られ、作文嫌いの大人と同じく、プログラム嫌いの未来の大人を作り出す、虻蜂取らずの亡国政策です。————————————-
プログラミングを学ぶことで論理力が身に付く・・・とよく言われますが、それは正反対だったのですね。そして論理力は日本語で考える力、読む力、書く力に他ならないのです。

もちろん、小さいときからプログラミングに興味を持ち、小学生のうちからアプリを開発してしまう子だって存在します。でもそれは学校で教わらないからこそ、本当に興味のあることに向かって本を読んだり、ネットを探索して学ぶことができたのだと思います。

授業の枠の外で様々な才能が開いてきたという事実を、学校関係者も認め、気付くべきです。新しい時代に適応する力を付けるには、古い一律教育しか発想できない学校は最もふさわしくない場であると。

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