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子どもの未来を考えるなら、学校で勉強などしている場合じゃない。

今の子どもたちが大人になる頃、どんな社会になっているだろうか。
たいていの大人は目先の仕事に追われ、なんとなく現代の延長線上にある社会をイメージしているのではないでしょうか。

だから20年後の社会で生きる子どもたちに、自分が経験してきた30年以上前の教育を押し付けて平気な顔でいられるのかもしれません。

しかしこれからの20年は、私たちやその親の世代・・・150年前に学校教育がはじまって以来かつてなかった大転換の時代に突入していきます。

今回は2045年に訪れるといわれているシンギュラリティを取り上げ、現代教育の問題とこれからのあり方について考えてみましょう。

以下(http://homeshoolclub.blogspot.jp/2016/11/blog-post_19.html)より引用します。
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2045年問題
いわゆるシンギュラリティである。

シンギュラリティとは
技術的特異点(シンギュラリティ)とは、未来研究において、正確かつ信頼できる、人類の技術開発の歴史から推測され得る未来モデルの限界点を指す。簡単に言えば、「シンギュラリティ」とはコンピューターの知能が人間を超える現象、またはその瞬間を意味する言葉。(Wikipedia)

グーグルの自動運転技術は実用化直前まできている。タクシーやトラックの運転手はいらなくなるだろう。人間の運転が禁止される時が来るかもしれない。
グーグル翻訳はかなり使えるところまで来て、実際にヨーロッパで使ってみたが、時間はかかるが短文ならほとんど問題なく使えた。帰国後バージョンアップされかなり長文でも理解可能なレベルになっている。通訳はいらなくなるだろう。

チェスも将棋も囲碁もコンピュータにすでに負けている。裁判もコンピュータのほうが正確で公平に判決をかけるのではないかと言われている。また耳にはめるだけで使える翻訳機Pilotが近く発売される。人工知能はかなり実用的になってきていて、2045年より前に実用化されるだろう。

コンピュータは
寝ない
忘れない
死なない
の3要素からして劣化することはありえない。

さらに、コンピュータ同士のデータの伝達も間違え、勘違いがない。そして、コンピュータはどんどん細小化し見えなくなる。必要な知識はメガネか、イヤホンまたは脳に埋め込まれたコンピュータが直ちに知らせてくれるようになるだろう。知識のあるなしは問題にならない、私たちの子どもはそういう時代を生きていくことになる。そういう時代に何が必要かといえば知識ではない。

情熱と創造力だ。
どんなにコンピュータが進化してもこの二つは簡単には実現できない。(少なくとも今の子どもたちが生きている間は)にもかかわらず、学校は相変わらず知識の伝達に全力を傾けている。

正確に言えば文科省はそのことに気が付いているようである。このままでは日本は世界から置いてけぼりになるという危機感はある。にもかかわらず、教師や教育関係者には危機感がうかがえない。さらに親である大人にも危機感がない。

その原因の一つが知識の断片テストである大学入試である。ゆとり教育はその目的は正しかったし、成果もあったが、大学をそのままにして小中学校を改革しようとしたがゆえに潰された。そのため、今回は文科省は大学入試の改革に乗り出した。しかし、そのことの意味を教師も親たちもまだわからないようだ。相変わらず従来通りの内申書と受験塾に邁進している。

その結果がいじめ問題である。虐めは閉鎖空間かつ価値観を強制するところに生まれる。
この小中学校において教師や学校が持つ斉一的空間が、子どもをして環境隷属の精神を作り上げている。

それによって追いつめられてしまう子どもがより弱い子をいじめることで晴らし、虐められる子は教師と虐める子の双方によって追いつめられる。というよりいじめっ子は教師の潜在意識により操作されていると私は睨んでいる。さらに親からの学校は行くものという常識の押しつけで、子どもは逃げ場を失い自殺にまで追い込まれていくのだろう。

つまりいじめ問題は学校問題である。いつでも逃げられると思えばいじめは発生しようがない。ブラック企業やサービス残業は学校の持つ閉鎖強制環境になじんだ子どもたちが大人になっても自力で脱出させないように環境隷属精神を叩き込まれているからだと思う。

話題が少しずれたが、この環境隷属精神でシンギュラリティの時代に生き残れるはずがない。なぜなら、環境隷属の精神では情熱も創造力も押しつぶされてしまうからである。

とにかく今は勉強しろ、好きなことをやりたければ大学に行ってやれ!と親たちや教師たちは言うが、好きなことをやるべき時は12歳までで18歳になるともう頭は出来上がっていて柔軟な発想は死ぬまで出てこない。その結果が、20年も成長が止まった貧困国日本である。

だから私は子どもを学校に行かせることに反対している。もっともいい方法はホームスクールだと私は考える。親が子供の成長に合わせて指導できる。短い期間であるがうちもホームスクールをやった。その結果小学校へ行く必要は全くないというのが結論である。

ちなみに、私が教えたのは週に4日、一日15分。他の時間はずっと遊んでいた。それでも小学校の教科に遅れることはなかった。(そのことは改めて書いてみたい)子どもが30人もいて、先生が個々の生徒に合わせて教えるなんて無理だ。10人でも難しい。でも1対1なら簡単。親が教えるべきだと思う。

次善としては小学校や中学校では子どもが学校や教師を選べるといい。教師が選択できるならうちも小学校に行かせていたかもしれない。うちの子は現在フリースクールの寄宿舎にいる。今息子が行っているフリースクールは子どもが先生を選んでいる。その結果何の不都合もない。

子どもは授業がおもしろいから受けていると言っている。先生は選ばれるために授業に工夫を凝らしている。子どもの機嫌を取るために遊んでばかりだと、逆に見限られてしまう。

また、大学の受験を改革するのもいいが、大学への国の補助金の在り方を変えるべきではないかと考えている。今は学生数に応じて補助金を出しているが、これが諸悪の根源だと思う。それゆえ大学は学生を入れて卒業させることに熱心だと聞く。だから日本の大学はほとんど留年も中退もない。入学さえすれば卒業はできる、だから有名校受験で猛勉強し、在学中は遊んでいてほとんど勉強しない。それに対し欧米の大学生は在学中に猛勉強するのでそこで能力的に抜かれる。

大学生や卒業生の書く論文の引用率に応じて補助金を出す方が良くはないか。そうすれば、大学は研究や論文の指導に目の色を変えるだろう。今は論文の引用数はGoogle Scholarですぐわかる。

すでに日本は貧富の差が生まれていて、貧困家庭の子は貧困を引き継ぐ傾向がある。東大を出ても大企業の流れから外れると貧困に落ちる状態である。今までの考え方で無難に生きていくことが無理になっている現状があり時代の本流が激変していることに対する無理解が貧困を生んでいると言える。

トランプがアメリカ大統領選挙に勝ったが、彼は中国からの輸入に関税をかけて仕事を増やすと言ったが、給料が10分の一以下の国は中国だけではない。他の発展途上国が喜ぶだけで、賭けてもいいがアメリカに仕事が戻っては来ない。今のままで仕事を増やすには中国と同じ給料まで下げるしかない。

同じ仕事で同じ給料を払う企業は競争に負けて容赦なく倒産する。先進国で生活レベルを維持するには生産性を上げるしか道はないのだ。生産性を上げるためには人と違う考えを持つことでしかありえない。

>人と違う< ← これしかない。

学校をこのままにしておくと金太郎飴のような労働者を大量に生み出し、2045年を待たずに日本は貧困国に転落するだろう。

未来に危機感を持つ人たちは子どもを学校から引きはがして自分の責任で子どもの未来を用意している。
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既にITネイティブと呼ばれる子どもたちのなかから、自らプログラミングを学び15歳で会社を立ち上げるような人材も出てきています。シンギュラリティを前にして子どもたちは既に未来を先取りしている、なにも分かっていないのは大人たちばかり。ということなのかもしれません。

豊かになりものがあふれる時代になり、大学を出て「いい生活」や「安定した生活」を手に入れるために勉強するという図式はもう機能しなくなっています。いやむしろ、いくら勉強して大学を出ても、そんなものは手に入らないことを大半の子どもたちは知っているのだと思います。

これからの時代を生き抜くために必要なのは、詰め込みの知識や学歴などではなく、事を成そうとする意欲と追求力。子どもの未来を考えるなら、学校で勉強などしている場合じゃないことは誰にでも分かるはずです。

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