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「かつて人間であったことを忘れてしまった大人たち」~いまこそ思考停止から脱して、人間としての生き方を取り戻す時

よその子はとっくに歩きはじめてるのに、まだ這い這いしてる・・・
うちの子は言葉がおそいみたいだけど大丈夫?

子どもの成長を見ていると心配は尽きませんが、いつから歩きだすとか何歳から言葉を覚えるみたいなことは個体差のある問題。そのうち歩くようになるし、言葉も覚えるようになるから大丈夫。とも思うのですが、世には平均的な発達過程に関する情報があふれていて、親の心配を煽るようなことばかり書かれています。

なんでこんなに横並びの成長にこだわるようになってしまったのか?
そこにはやはり、あの学校制度の存在が影響しているようです。

まずは五味太郎氏の「大人問題」より。
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人間というやつは、わりあいあっさりと現役をやめてしまう。それ以前の区分が多すぎる。胎児から始まって新生児、乳児、幼児、児童、学童、生徒、学生、青年、成人、社会人、中年、中高年、高年、壮年、老人・・・ああ、ほんとうにめんどうくさいという感じです。で、乳児になれば新生児は卒業、学生になれば生徒は卒業、大人になれば子どもは卒業といった生き方になります。
ワカシ・イナダ・ワサラ・ブリなどと名前をつけて、出世魚なんて呼びますが、ブリ当人はずっとブリ、とくに出世したとも、したいとも思っていないはずです。

「かつて子どもであったことを忘れてしまった大人たち」などという表現があります。子ども心がわかるわからない。あるいは単に昔が懐かしいというようなときに、ちょっと差別化をしたくて使う人が多いようです。細かい区分がありすぎるから、そんな表現が生まれます。ずっと一本つながっていれば、そんな言い方しなくても済みます。あえていうなら「かつて人間であったことを忘れてしまった大人たち」というところでしょう。
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人間の成長過程を細かく区分する考えは、発達心理学という学問が進展するなかで定着してきました。とかく学問では何でも細かく区切って分析して、もっともらしい理屈をつけるのが常であります。

そして何のためにこんな区切りが必要だったかと言うと、次のような事情があったようです。
ウィキぺディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%AE%E7%99%BA%E9%81%94)では
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子どもの最善の発達は、社会に不可欠とされている。子どもの社会・認知・感情そして教育による発達を理解することは重要である。この分野における研究と関心の増大は、学校制度の中で発達を促進する実践・実験に関する新しい理論や方略をもたらした。
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つまり学校制度において、画一的な強制教育を推進する理由なり根拠を与え、そこから外れるものの排除を正当化するのが、発達心理学の役割であったのだといえるのではないでしょうか。

また従来は児童が中心だった発達心理学ですが、現代は大人の発達心理学も一般化し、生まれてから死ぬまで発達段階ごとに区分けされ、問題視するようになってきました。

以下(http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/word001/psycho_word25001.html)より引用します。
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自由化や市場化、少子化(未婚化)、社会の高齢化、格差拡大などを伴う『高度資本主義社会』の成熟によって、今までに無かった新たな社会問題や各年齢層の発達課題と悩みが生まれ、発達心理学が研究すべき射程は『人間の生涯のすべてのプロセス』を包摂するものになってきたのである。核家族化の進展や自由だが孤独感を抱える未婚者の増加、少子高齢化による社会保障財源の不足、非正規雇用の増加(平均所得減少)による経済生活の不安と未婚化、若者の就職難と失業者・無業者の増加、自己アイデンティティの再建を迫られる中年期の危機(熟年離婚の危機)、高齢者の医療・介護・年金のコスト増大など、豊かになった先進国の社会が抱える『各世代の葛藤・苦悩・迷い』はますます増えている。

1970年代以前の発達心理学では、子どもと成年、成人、老人をそれぞれ区分して考える事が多く、高齢者の発達的課題をメインに研究する『老年学(gerontology)』もあったが、1970年代以降になると、人間の発達は成年期でピークを迎えて完成するのではなく一生涯を通じて意義のある発達が続くとする『生涯発達心理学(life-span developmental psychology)』が主流になってきた。
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要は近代になって社会の構造がかわり、生きずらくなってしまった人々の葛藤や苦悩や悩みを分析し、正常な発達過程からの逸脱があれば障害や病気として認定し矯正あるいは治療をしましょう。ということのようです。

学問が世のため人のためにあるのなら、まずは社会構造の問題を究明し、本来の人間として暮らしていける社会をつくっていこうとするのが役割りのはず。しかし社会にも、学校制度にもなんらメスを入れることなく、近代社会ありき、学校ありきでその存続に加担しているだけのように見えます。そんな学者の言うことに惑わされてあたふたしているのが私たち大人。学者のいうことに耳を傾ける必要なんかありません。

冒頭の「かつて人間であったことを忘れてしまった大人たち」とはきつい言葉ですが、現代社会でそれなりに生きていくことに慣れてしまった大人たちは思考停止そのもの。本来もっていた好奇心や追求心を失い、人間であることをやめてしまったといわれても仕方ないでしょう。

だからこそ赤ちゃんから大人まで一本につながった人間としての生き方を取り戻すことこそが今必要なのだと思います。そのためにとどうするか? やはり思考停止から脱して学校どうする?社会どうする?を真剣に考えるべき時なのだと思います。

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