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「脱学校の社会」~制度による支配から脱却し、自分たちの手で社会をつくろう!

1970年代、今から50年前にオーストリア出身の哲学者イヴァン・イリッチが「脱学校の社会」を著し、その後のフリースクールやオルタナティブ教育の進展に大きな影響を与えました。

1970年代といえば日本でも学校が荒れ始めたころで、学校、教師といったこれまでの権威が大きく揺らぎ始めた時代です。物的豊かさが実現し、貧困からの脱出を夢見て私権獲得にまい進し、制度で固められた序列や権威に甘んじていた人々の意識が脱私権へと向かい始めた時代でした。

今でこそ、学校教育の弊害が大きく議論されていますが、振り返ってみるとすでに50年前、学校制度を支える社会の根底が大きく変わっていたことに気付かされます。

今回はそのイリッチの「脱学校の社会」を見てみましょう。

以下(http://d.hatena.ne.jp/ken-longman/2013052)より引用します。
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学校(特に義務教育のそれ)は、あたりまえのように世の中で機能している。だが、はたして、本当に学校は社会に必要な機能なのだろうか?と問われると確たる答えを出す自信はない。イリッチは、今の形の学校は不要であると説き、さらに進んで、学校があるから、子どもたちは自由に学ぶ権利を奪われていると主張している。そして、教えるという視点でも、免状を持たない人間に「教える」という行為を禁ずることを法的に認める役割をもはたしている。

イリッチの描く「脱学校」の社会は、だれでも、いつからでも学習しようと思った時に学べる社会である。一方、自分の知っていることを他の人と分かち合いたいと思う人からその権利を奪わない。そう思う人と、学びたいと思う人をマッチングさせるネットワークを作ることを構想する。そして教室という枠を取り払い、だれでも「この指とまれ」で問題提起をして議論しあう場を保証する。この社会では、今の義務教育のような、パッケージ化された「知識」を注入するような教育とは無縁だ。識字教育を「人間解放」と位置付けたフレイレの主張と重なる部分もある。

このような提起が1970年代になされていたことに特にすばらしさを感じる。イリッチは本書の中で「学習のための網状組織」learning webs という概念を提案している。今でこそ、インターネットが普及してwebというのは珍しくないが、本書が書かれたのは、インターネット以前の社会だ。

そして、現実に、学校という形にとらわれない「学び」がネット上に普及してきている。日本にいながら、年齢に関係なく、アメリカの大学の名講座を受講でき、レポートを出したり、議論に参加したりできる。また、「知恵袋」のような形で、だれでも質問し、別の場面では、自分の持っている知識を広めることもできる。動画サイトを使えば、自分の「講義」を発信することもできる。

ただし、イリッチの指摘の本質は、学校に象徴される現代の社会制度そのものだ。いくらインターネットが発達しても、各種「制度」が人間を支配する構造が変われない限り、「脱学校の社会」は見えてこない。
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イリッチは脱学校を唱えるだけでなく、その後の学校・社会のあり方も示唆していました。驚くのは「学習のための網状組織」learning webs という概念。

まだインターネットなど存在していなかった当時は、制度の支配から脱して人と人が主体的に繋がり合うイメージだったのだと思います。それがネットの普及と同時に一気に実現に向かっているのが現在の状況です。

そしてイリッチは「価値の制度化」という視点で、医療や福祉制度にも切り込んでいます。

以下(https://ittokutomano.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html)より引用します。
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 イリッチの社会批判のキーワードは、「価値の制度化」だ。

 先にも書いたように、価値とは個々人の多様な豊かな生のために、個々人が自ら実感し育てていくものであるはずだ。

 しかし教育も医療も福祉も、みな「あるべき姿」が公的価値によって決定されている。

 たとえば、学校的知識を持っていれば持っているほど、彼は「有能」な人とされる。

 医療で言えば、お腹周りが何センチ以上の人はメタボと診断され、「不健康」な人と決定される。

 学校的知識がそれほどなくたって、世故に長けた人はいっぱいいるじゃないか。太っていたって、それで豊かな人生を送っている人はたくさんいるじゃないか。

 イリッチの批判は、さしあたりそうしたものだと考えていい。「価値の制度化」は、個々人の多様で豊かな生を妨げてしまうのだ。

「学校と病院のどちらも、自分自身で自分の治療を行なうのは無責任なことだとか、独学で学習するのは信用できないことだとみなすのであり、また行政当局から費用の出ていない住民組織は一種の攻撃的ないし破壊的活動にほかならないとみなすのである。」
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免許を持った教師や医師が言うことだから価値がある。冷静に考えるとおかしな理屈ですが、無意識のうちに私たちはそう思い込まされていたのかもしれません。

脱学校、脱近代医学・・・新しい教育や、西洋医学一辺倒から東洋医学の見直しなど新たな動きが活発になっています。その潮流を本物にしていくためにも社会の根底に横たわる「価値の制度化」を解体し、を私たち自身が価値を生み出し共有していけるようになることが必須なのだと思います。

「自分たちの生きる場を自分たちの手でつくる」 イリッチが目指していたのも同じだったのではないでしょうか。

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