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学校時代の終焉~学校という既製の枠を越えなければ次代は築けない

前回は縦割り保育の実践例を紹介しましたが、なぜ今までは同じ年齢で学年を区切ってきたのか?なぜ今縦割り保育や教育が注目されているのか?素朴な疑問が湧いてきました。

これまで学校とはそういうものだと、疑うことすらありませんでしたが、改めて学年制のはじまりについて考えてみました。

以下(https://www.waseda.jp/student/shinsho/html/65/6514.html)より引用します。
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『学校時代の終焉?』

学校という場所の最も奇妙なところは、学年制という同一年齢層(cohort)からできあがっている点で、このような集団は他にこの世のどこにも存在しません。ということは、それは極めて人為的に作られた集団だという意味を表しています。では、何のために作られたのでしょうか。今あるような学校制度の大半は近代産業社会の出現(1 9世紀以降)と軌を同じくし、それ以前には見られなかった〈学齢期〉、あるいは〈就学期〉というものを大量に生産することになりました。生涯の一部を〈子ども時代〉に閉じ込め、ひとかたまりにして保護・監督、または隔離・強制の対象とするようになった理由は明白です。学校不在の時代を考えれば、このことはもっとハッキリしています。

 ある種の職業には今なお〈見習い〉〈徒弟〉という教育方法は健在ですが、学校のなかった時代はほとんどがそうでした。どんな職業でも、それに必要とされる知識や技能は大人と一緒に仕事をすることで、子どもたちは身につけていったのです。〈模倣〉によって生きるすべを獲得していたのです。子どもはそれぞれが大人のすることをまねることで、働か(け)ない時期から働く時期への移行(一人前になること)を達成していきました。教えられるよりは覚えること-暗記や記憶ではない-それが教育の核であったわけです。職業の種類が少なく、それに見合った技能水準が限られている時にはこのような方法は有効でした。西洋で見られたツンフトやギルドの徒弟制度、日本でも親方のもとで丁稚(弟子)奉公によって、技能を獲得する修業制度は広く見られた学びの風景でした。

時は移り工業化社会が到来しました。それは学校時代の始まりでもありました。産業技術の開発は商品の大量生産を可能にし、技術革新は新たな職種を増大させ、同一職業の分業化や専門化を導くことになります。同時にその職種に適合する技術者を大量に必要とします。このような産業化の要求に徒弟制度や丁稚奉公ではとても間に合わないのは明らかでしょう。日本の〈近代化〉が富国強兵・殖産興業をお題目にして展開されたことは周知の事柄で、学校教育制度が創設されたのは明治初期であったのは必然だったのです。

 さらに時は流れ、〈高度経済成長期〉という野蛮な経済時代がこの国を襲撃しました。学校は社会的地位獲得のための代表的な機関であることをこれまで以上にあらわにします。就学期間の長短やどのような程度の学歴を所有するかが競われたのです。このような学歴偏重は、一面では社会的移動の可能性を開きましたが、他面では学歴による選別や差別を発生させたことも事実です。教育における競争原理がもてはやされ、点数に対する異常な信仰が猛威を奮うことになります。でも、経済システムが有効に機能し、経済規模の拡大が持続する限りにおいて、学校教育は自らの存在を認められるという、そんな学校時代=反教育時代は終焉を迎えつつあるようです。
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いきなり「このような集団は他にこの世のどこにも存在しません」ときましたが、たしかに年齢別に部署を構成している企業などありませんし、地域の集まりなどは老若男女さまざまな人の集まりです。

その中で教育の世界だけが学年制を敷いているのは、模倣=真似る学びよりずっと効率的な方法だったからです。同じレベルの者を集め、決まったカリキュラムに基づいて一斉授業で知識を強制的に詰め込む。教育制度は、知的好奇心や探究心のような内発的なものによらず、工業生産のように規格人間を大量につくるためのシステムだったといえるでしょう。

しかしそれが有効だったのは経済成長が続いていた間だけ。市場が縮小し先行きが見えない時代にあって、学校制度がつくりだす規格人間は全く役に立たなくなってきたのだと思います。これからの時代必要なのは、自らの意志で学び考えることができること。その可能性として同年齢の学年ではなく、広い人間関係の中で刺激し合い、学びあい、追求していける異年齢保育・学習が必然として登場してきたのだと思います。

学年制は当たり前。

と思ってきた私たちの常識は、近代の特殊な教育システムにすぎなかったのです。いま私たちは、常識という既製の枠を自らの思考で越え出なければ将来を見とおすことも次代を築くこともできない、そんな時代に生きているのです。そのための教育改革がすでに始まっているのだと思います。

 

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