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支配・管理ではなく信頼して見守る~保育の原点は全ての教育機関に必要なこと

0歳児から幼児期を通して子供たちと接し、成長を見守る保育士の仕事はすごく大切だなと思います。
子供たちと遊んでいるだけだろ、と思われる方もいるかもしれませんが、そこには単なる遊びや表面的な躾にとどまらない信頼関係の形成、自発性を促す導きなど、人間関係の原点があるように感じます。

ところが、一部の幼稚園や小学校に上がると、教育・指導という名目で一律・強制的な管理が始まります。どちらも文部科学省の管轄下で指導要領に基づいた教育が行われるわけです。

今回は保育士の方のお話から、子供との接し方、人と人との関係について考えてみます。

以下(https://hoiku-me.com/communication/child/30312/)より引用します。
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●子どもを支配していくと保育はどうなるか
子供に対してとても支配的・管理的な園がありました。

その園では入園の時から、生活の中で待たせたり並ばせたりと大人の指示に従う箇所をたくさん設け、多くのルールを課し「それはいい」「それはダメ」といったことをしています。従わなければ怖い顔を向けたり叱ったりすることで、まるで「誰がボスなのか」と印象づけるようなことに力を入れ「保育園生活・集団生活を学ばせる」のだそうです。

猿回しという伝統芸能があります。
猿回しでは、猿に芸を仕込む時の最初の段階で、人間が猿に本当に噛みつきねじ伏せます。そうして屈服させることでその人間がボスであることを理解させ、従うようにさせていくのだそうです。はっきり言って、この保育園がしているのはこれに近いことでしょう。

支配的な保育の考え方の最も基礎にあり残念なことは、子供の力を軽視していることです。子供への視点の前提に、「子供とはわからないものだ」「できない存在なのだ」という認識があります。

大人に従順に従う存在に仕向けて、「一つひとつ”正しい行動”を取らせていかなければならない」と考え、そのために「支配」や「管理(コントロール)」することを用いるようになってしまっているのです。

このかたちで保育をスタートすると、ずっと子供を効率よく支配し続けなければならなくなってしまいます。支配することが「保育」になってしまうと、保育の仕事はストレスばかりが多く、とてもつまらないものになっていくことでしょう。

●「できる子」を目指さない!「できる」はついてくるもの
多くの大人は子供を前にすると、「この子を伸ばさなければ、○○を習得させなければ、学ばせなければ」と考えがちです。

保育でもさまざまなカリキュラムを設定し目標を決め、目標に実際の子供を近づけることが要求されますので、どうしても「○○できる」を子供に求めてしまいます。

その気持ちがあまりに強いと、第1回目の記事『子供がついてくる保育を!』でもお伝えしたような、支配やコントロールすることで子供を目的の「型」にはめ込もうとしてしまいます。意識がいきすぎれば「疎外」や「体罰」まで使った力技の保育になってしまいかねません。

できるようにしなければならないと強く考えている人は、「まだまだ子供の力を知らないのだな」と感じます。子供の力がどれほどのものか知らないので、「子供を信じること」ができていません。

そのため、まるで粘土細工の粘土のように子供の姿を直接大人がこねくり回して、大人の設定する「型」に押し込むような関わりになってしまうのだと思います。そのようにすることで「私がそれをさせた」と自己満足してしまいたくなっているのでしょう。

子供は、粘土細工ではないのです。大人が直接こねくり回さずとも、必要なことを達成するだけの力をすでに身の内に持っています。それはまるで、花の種のようなものです。

「○○できる」だったら、その子はすでにもう持っています。それが自分の力で、また自分の意欲で開花できるようにサポートしてあげることが本当の保育士の仕事です。

「その子は、もう”○○できる”は持っている、今はまだそれが表れていないだけだ」とその子のことを見てあげることができれば、力技でやらせようとせず、自分でできるようになる姿を待ってあげられるようになります。これが、子供を信じるということです。
保育で1番大切なこと

では、保育士は子供ができるようになる力を自分の力で開花させてあげられるようにするには、どうすれば良いでしょうか?

(中略)

この前、僕の保育研修後に、現役の保育士からこんなことを相談されました。

『年長クラス。子供たちのモノの取り合いのトラブルが多くて困っている。』さらに話を聴くと、『それらのトラブルに対して、こまめに保育士が介入して謝らせたり、どちらが使っていたモノだと判定したり、他のモノで遊ぶように促したりと一生懸命頑張っている』とのこと。

それに対して僕はこのように伝えました。

「もし、自分と子供との間に信頼関係がきちんとできていると思うのならば(幸い年少から持ち上がりの担任で信頼関係はできていた)”否定の視線”ではなくおおらかな気持ちでできるだけ見守るだけにして、手が出てしまうなどの危険なこと以外は子供に任せてやらせてみたら」

それを半信半疑だけれども実践してみたところ、そう時間をおかずに子供たちの姿が変わってきたとのことです。

事例:遊びの中でのトラブル

活発で遊びが上手な気の強いA君と、月齢が低く全般的に幼く、遊びを壊してしまうことがありいつもA君とトラブルになることの多かったB君。

やはり、遊びを巡ってトラブルになったが、保育士は手を出すのを我慢して見守るようにした。当初はいつものようにトラブルになり、B君が泣くことで終わっていたが、次第に変化が出てくる。

何度か同様のことがあった後、そのB君が泣いているのを慰める女の子が出てきた。またしばらくして「B君も入れてあげればいいじゃない」とA君に意見する別の子が出てくる。

さらにその後、A君と一緒に遊んでいることの多いC君が、B君に「こうやって遊べばいいんだよ」とサポートする姿が見られてきた。それから、A君がB君にいろいろと教える姿が出てきて、一緒に遊べるようになってきた。

見守った結果、保育士が感じたこと

保育士は、それまで良かれと思って子供に介入してきたことによって、実はそれが子供たちの力を発揮させる場を奪ってしまっていたことを実感したということでした。

これは本当にいい経験ができたと思います。なぜなら、“子供を信じること”によって、子供がより成長するという保育実践だからです。どれだけ経験年数を重ねても直接的に子供を正しい姿に粘土細工してしまうことでは、この経験をすることはできません。

一度子供を信じることによって子供がより成長するという実践経験を得られると、他の所でも子供を信じて伸ばすアプローチがしやすくなります。

一般の人はもちろん、保育士も少なからず「子供の正しい姿を”作り出すことが”大人の役割」と思ってしまっています。

それゆえ一般の人は、子供への関わりが過保護・過干渉気味になったり、怒ったり叱ったりの多い子供を押さえつける方向の関わりになりがちです。そして、子供に関わる職業の人は、子供への支配や管理がうまくなってしまいます。

保育は、保育士である「私」が主体になって子供の姿を「正解」に当てはめるのではありません。保育の主役はあくまで「子供」です。子供自身を主体にして、適切な力を身につけさせることが本当の保育士の役割になります。

保育士は、子供の成長にもっとも大切な乳幼児期に接する専門家です。どうか、子供と信頼関係でつながるスキルを身につけ、それを実践し周囲の人にも伝えられる役割を担って欲しいと思います。
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これは幼児保育における話ですが、学童期以降も、いやもっと大きくなってからも大切な人との関わり方なのではないでしょうか。

そこに教育的視点が入ったとたん、否定視に基づく支配や管理という意識に陥ってしまい、活力を削ぎ、自発性の芽を潰してしまうのではないでしょうか。

支配・管理ではなく信頼して見守る。保育の原点は全ての教育機関において、人間関係において必要なことなのではないかと思います。

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