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ゆき過ぎた「子供」観念が不安や悩みを抱える若年増を増大させている。

私たちはごく普通に「子供」という呼び名を使っています。

ところがヨーロッパでは中世以前は「小さな大人」と言う概念しかなかったということ、日本でも12歳をすぎれば元服といって大人の仲間入りをしていたことなど、歴史的に見れば「子供」はごく最近になって使うようになった概念なのです。

今回はこの「子供」の誕生による変化が、近年になって不安や悩みを抱える若年増の増大につながっているのでは?

という意見を紹介します。

 

以下(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=84017)より引用します。
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「子供」という旧観念
> 「大人になるって?」「大人とは?」これは、これという答えを導くのが困難な、しかし私たちにとって(特に中・高生にとって)は永遠のテーマであります。先日テレビ番組で「大人になる」ことの定義を模索していました。

■「子供」は当たり前の存在か?
 教育・子育ての問題について議論するときに気をつけなければならないのは、「子供」という存在が、果たして、「当たり前」で「普遍的」な存在か?という点だと思います。

 アリエスの「<子供>の誕生」を読むと、かつて、大人・子供という区別はなく、子供は「小さな大人」とみなされ、物心がつく年齢(現代で言えば小学生に上がる年齢)になれば、他の家や村での見習い修行を通じて、大人と同じように働き、扱われる存在だったことがわかります。小さいなりに体力や知識に応じた、課題・役割が与えられていたのです。

 生みの親よりは、親方の家庭=育ての親について実務をしっかり叩きこまれるわけです。当然、自分の子供部屋もプライバシーなどありません。
 今のように、子供だから、という理由でことさら特別扱いされたり、溺愛・甘やかされたりする、ということはありえなかったのです。

■「子供」の成立と学校制度
 現代のような「子供」が成立したのは、近代になってからです。
 特に、学校制度の普及が大きな役割を果たします。

 近代国家が成立すると、工業・商業・官僚制度の整備が国家間闘争の要になります。国力増強のために、子供を農漁村の共同体から引き離して、都市の労働力として標準語と最低限の教養を植え付ける巨大な組織=学校の整備が必要とされたのです。

 学校に行くようになった子供は、それまでと違って、次第に働かなくなりました。
 後に教育期間は長くなっていきましたから、労働経験のない期間も長くなるわけです。こうして、働かない「小さな大人」=「子供」という特殊な身分が生まれ、いわゆる「青春」という概念や、近代的なモラトリアムが生まれました。

 また、子供が親の独占的な愛情の対象、溺愛の対象となるようになりました。かわいがる、庇護する、甘やかす親が、こうして誕生し、家庭のプライバシーは絶対化されました。人権概念が普及すると、「子供」という特殊な階級のための権利、人権が制度化されていきます。

 このような、小さいから、というだけで外圧から隔離し、特権をあたえるようになったことが、現代、様々な精神破壊、不安、悩みをはらんだ子供を大量生産してきた大きな原因だと、私は考えています。保護していたはずの子供にとっても大きな不幸だったと思います。

■「子供」とは旧観念では?
 教育とは、常に何らかの「外圧」の必然性がなければ成立しません。
 大人と同じように働いていた時代の子供は、当然、成果を出せるようになるために、必死で学んだでしょう。闘争圧力、期待圧力の存在は、精神回路の発達を促したでしょう。

 上記のような現状を突破する一つの方針として、農業体験や農村の全寮制学校には強い可能性を感じます。

> 子供達のひ弱さや、精神欠陥の激増、生活の知恵の欠如等の現状を受けて、自然体験・農業体験が拡大しています。
> 教育の場は生産の(換言すれば生活の)場になければならない。特に発達段階にある子どもたちの本能回路から共認回路・観念回路を強く育成していくためには、自然外圧の強くかかる場が有効ではないかと思います。
  
 私は「子供」は一つの旧観念なのだと思います。
 少なくとも、近代以降でしか通用しない特殊な観念だといえます。だとすれば、子供も大人と同じように、「社会の当事者」として期待をかけることはできるはずです。その期待が、ひいては、子供たちの勉強意欲につながるのではないでしょうか。
 教育の場でも、「旧観念無用」が求められる一例だと思います。

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親にとって子供はいくつになっても子供・・・ゆき過ぎた子供観は、独り立ちできない大人子供を生み出す温床になっているように思います。

幼い子供をしっかり見守ることは大事ですが、それもせいぜい7歳くらいまで。その後は子供たちの仲間世界で揉まれながら、中学にあがるくらいにはほぼ大人としての期待をかけてもいいのではないでしょうか。

「子供」という観念が一人歩きし、溺愛や甘やかし、さらには親による子の支配を正当化するに至っている。私たちは今一度「子供」の意味、接し方を考えなおすべきでしょう。大人・子供の区別の前に、同じ社会を支える一員なのだということがその出発点なのではないでしょうか。

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