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新しい学校のあり方~「サドベリースクール」の可能性

90年台から増え続ける不登校。最近は自発的に学校に行かない選択をする子供たちもいます。

一昔前なら、早々に社会からドロップアウトしてしまった・・・と極めて否定的に捉えられていましたが、実際には、興味のあることを自発的に学んだり、年齢を超えた人間関係の中で社会性を身につけたりと、学校生活では得られない体験を糧に成長している話もよく聞きます。

アメリカの調査では、学校にいかずホームスクーリングで学ぶ子供の思考力は、学校に通う子供たちのそれより5~10年進んでいる、という報告もあるようです。

今はまだ「義務教育は当たり前」という意識が大勢を占めていますが、一方で画一的は詰め込み教育の弊害も盛んに指摘されています。

学校ってなんだろう? これからの学校の可能性はあるのだろうか?
と考えていたら、サドベリースクールという存在を耳にしました。

50年後のスタンダード!古くて新しい学校のあり方「サドベリースクール」『世界一素敵な学校』
(http://blog.livedoor.jp/yukihira3210/archives/45294382.html)より引用します。
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徹底的に子供を信頼する学校
この学校の目的は、学習が自己の動機、自己管理、自己批判によって最善のかたちでもたらされるとの原則に基づき、コミュニティとしての教育環境を創設、維持するものである」ーーサドベリー・バレー校の規則より

「信頼」
非常に心地の良い言葉ですし、大切なものです。
きっと多くの教師も「私達は生徒を信頼しています!」とおっしゃるでしょう。

しかし、サドベリースクールの「信頼」は生半可なものではありません。
子供、というよりも人間という生き物そのものを絶対的に信頼して成り立っているのです。

これはサドゲリースクールの「学校設立趣意書」の冒頭です。

「ひとびとは生来、好奇心に満ちている。その好奇心を自ら自由に追い求めることができるとき、持続する関心と究極の満足がうまれるであろう。彼・女らの、物事に対する初源の関わりが育まれ、高度な探求へと成熟する機会に恵まれたとき、彼・女らはその分野において、最も深く興味を抱き、最も強く学び、最も集中することになるだろう」

このなんの変哲もない文章を徹底することがどれほどむずかしいことでしょうか。
子供達を見ていると、いつまでたっても親が呆れるほどに一つのことに夢中になって遊んでいます。人間の生来の好奇心はそれほど強いものであり、年齢を重ねてもそれは本来は変わらない、だから子供達を信じ、その好奇心に任せていれば、いい。その信念のもとサドベリー スクールは成り立っています。

「なにもしない」
だから、普通の親が心配して、「教え」ようとしてしまうときでも、サドベリースクールでは「見守ります」。12歳まで文章が読めなくとも、15歳まで釣りしかしていなくても、「なにもしません」。

この「なにもしない」 が大切。

なにもしないことで、子供達は自分の感覚を信じ、自分の気持ちを最優先に物事に取り組むことができます。

実際、12歳まで文章が読めなかった子供も、「文章を読みたいから教えて!」という時期が訪れ、その学びの後は、みんなと全く遜色なく読むことができるようになった。ちなみに早い子は5歳くらいから読むことを学びたいと言ってくる。それだけの個人差に関わる大人が耐えられるか?ということです。

ちなみに、どうしてかはわからない、と本書でも断っていますが、開校以来(執筆時40年くらい)一人も読み方が困難なディスクレシア( 識字障碍)は起こっていないそうです。僕としては、学校教育で無理やり読み書きを教えているからではないか?と邪推してしまいます。

また、15歳まで釣りしかしていなかった子供も、15歳になるとコンピューターに夢中になり、翌年にはそのスキルを活かしてアルバイトをするように、さらにもっと勉強になるために大学に進学しました。なにも問題はなかったのです。問題は、見守る大人の方にある。
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子供たちは、必要と感じたときに自ら学んでいく力を持っているのです。
現在の学校のように、一定の年齢で、決まった教科を強制的に教え込むことがいかに不自然かがわかります。

そして子供だから、という理由で管理する視点も誤りだということがわかります。
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「クラス」も「教師」も「学年」もない
「1年B組、担任の先生は○○先生です 」小学1年生の大きな声が響いてきそうですが、
サドベリースクールにはその全てがありません。

この学校の運営は、スタッフと子供達によってなされています。そのもっとも権威のある会合が全校集会です。そして、そこではステッフも子供達も年齢など全て関係なく一人1票を保持しています。そこで、徹底的に話し合う。また、予算が欲しい活動があれば全力でプレゼンする。どんな小さな子の提案でも真剣に聞く。それで大丈夫。実際、数十年の歴史の中でもっと大きな事故は、八歳の子が滑って転んで肩を打撲した転倒事故。

なぜか?大きなブナの木の天辺まで登ったり、小川で遊びまわる子供達もいるのに、大きな事故はない。それは、「自分たちでルールを決めているから」

スタッフ達自身も、初めはナイーブでビクビクしながら運営に携わっていたそうです。でも、次第にわかるようになってきたこと、いわゆるリスクに見えるものの本質とはなんのか?

日々、直面する危険とは、子どもたちにとって自ら立ち向かう挑戦でしかないことが、次第次第にハッキリしてきたのです。辛抱強く、最後までやり通す決意と集中力、そして何よりも、相手にとって不足なしとする尊敬の念が、危険を克服するのです。子どもたちは、生まれつき事故防衛本能を持っており、自己を破壊するようなバカな真似はしないものなのです。
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私たちが日常いかに子供たちから、学びや挑戦のチャンスを奪っていることか・・・
子供たちを信頼する、という言葉はよく聞きますが、人間の生命としての存在を根本から信頼するところまでいかなければ真の「信頼」とはいえないのでしょう。

こうして成長した子供たちの声からは、彼らの自信と可能性に向かう力が感じとれます。
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卒業生の言葉
サドベリースクールは18歳まで。そこからどうするかは自分次第。専門職に就く子もいれば、進学する子もいる。ちなみに、進学したいと言って進学できなかった子はいないそうです。しかもほとんど第1志望。彼らの言葉が最後に集められています。

本が好きで、インターネットも好き。友だちも好きで、サドベリー・バレーに通ったことも好き。
ぼくは自分で、やれる、出来る、と考えています。
サドベリー・バレーに通った結果、常に問いを発することができるようになって。ぼくはそのことがとても大事なことだと思っています。

私は、スピードとか、時間の制約とか、私たちの文化が拠りかかっている、なんでも素早くやらなくちゃならない、という思い込みから、外れて生きて来たように思います。

全部をひとまとめにしてしまうような言い方になりますが、自分の人生で何が好きかと言えば、生活をエンジョイするキャパシティ、だと思います。どんな挑戦でに、難しいことだと思わずに立ち向かっていくことができます。
私がサドベリー・バレーで学んだ、最大のスキルは、自分に自分が教えることができるということ、自分で問題を解決できるということです。

一見、子供達を自由にしてしまうとよく言えば天真爛漫に、悪く言えば破天荒に危ない橋を渡ったり、ただ遊ぶだけに終始したり、するんではないか、と疑いを持ってしまいます。けれど、子供達は小さい時はただただ無邪気にかもしれないけれど、年齢を重ねるごとに広い視野を持ちしっかりと自分で考えることができるようになるものなのでしょう。それを大人が邪魔しているだけなのかもしれません。
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50年後の社会で、サドベリースクールのような学びの場がスタンダードになっているかどうか?

ずべてはこれからの私たちの意識、考え、行動に拠っているのです。

 

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