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高齢化が悲惨とは限らない②~自ら社会を掴み社会に応えていくことが活力になる

可能性まみれの高齢者の事例、その2です。

高齢化が悲惨とは限らない②~自ら社会を掴み社会に応えていくことが活力になる [1]

 「南牧村では借金をせずに自分の体力に合った規模の農業に徹すれば、生き生きとした生活が年齢にかかわらず送ることができる」と、伊藤さんは明言する。そして、重要なのはどこの農家も作るようなものには手を出さず、誰もやっていないような作物を栽培することだと、秘訣を明かす。

「何が地域活性化なのかといえば、生産が収入に結びつくことです。多寡を問わず、カネになることです。私たちは外貨を稼いでいます。やる気さえあれば、南牧のものでカネになるものはたくさんあるはずです」

こう指摘するのは、南牧村で花卉栽培をしている石井清さんだ。石井さんは1977年に結成された南牧村の「南牧花卉生産組合」(組合員15名)の前組合長で、発足時からその屋台骨を支えてきた地元の専業農家。現在、63歳である。

南牧村3 [2] 南牧村4 [3]

石井さんは、1970年代後半から花卉栽培を始めた。当時、南牧村の農業と言えば何と言っても蒟蒻だった。花づくりに取り組む農家は少なく、石井さんは周囲の人から「農業高校を出て花をつくっているのか」と半分バカにされたという。それでも、仲間を募って菊の栽培を手掛けた。花卉生産組合の発足当初のメンバーは、27人だった。

ところが菊の栽培は難しく、四苦八苦するはめになった。高齢化や離農も加わり、仲間が1人また1人といなくなっていった。十数年が経過すると、とうとう4人にまで減少してしまった。このままでは産地消滅だと石井さんは危機感を募らせ、仲間集めに奔走した。

しかし、菊づくりのハードルが高いように受けとめられていて、尻込みする人ばかりだった。そんなときに移住者の伊藤さんがメンバーに加わった。石井さんらが直接、「この人ならば」と声をかけたのである。
(中略)
このヒペリカムが突破口となった。花卉農家の意識が菊以外にも向くようになり、アジサイやヒメヒマワリ、クジャクアスタ、ワレモコウ、アロニア、ハーブ、リシマキア、南天、菊など、50品種を出荷するまでになった。活気づく花卉農家の姿を見て、「これなら自分にもできる」と新規参入が続き、花卉生産組合メンバーは15人にまで増加したのである。

石井さんは「最初は私が面倒みていましたが、たくさん来るようになってそれもできなくなりました。それで得意分野を持った人に新しい人を教えてもらうようにしました。教える側に回ると、自分も成長しますし、教えを請われると悪い気はしないものです」と語る。

花の品種ごとに師匠と弟子のような関係が生まれているという。もっとも、弟子の方が腕を上げて師匠をいつの間にか追い越すというケースも少なくないそうだ。

南牧村の花卉農家には、いくつかの共通点があるという。1つは、露地栽培を中心としていることだ。初期投資を少なくし、低コストでの栽培に徹しているのである。

2つめは、高齢になってから組合に加入する人が多いという点だ。年金プラスアルファの収入を得ることを目的としており、仕事を楽しんでいる人が多いという。3つめが、みんな元気で明るいという点だという。

実際、花卉生産組合のメンバー15人のうち、13人が年金受給者である。年齢構成を見ると、40代が1人、60代が3人、70代が10人、80代が1人となっている。70代が主力で、最年長齢は85歳だという。定年退職後の70歳で組合に加入した小林正一さんである。

高齢になってから花づくりを始めた小林さんは、「今やヒペリカムの栽培ではトップクラスだ」と師匠の石井さんは言う。どうやら師匠を追い抜いてしまったようだ。

ではなぜ、南牧村で花栽培をするお年寄りが元気いっぱいなのだろうか。冬の日照時間が短く、寒暖の差が大きい南牧は、花の栽培に適していると言われている。花の色の鮮やかさが違うのである。狭い傾斜地を上り下りしながらの作業となる。それでも花は軽いので、高齢者にも扱える。細かな作業が中心で、外で長時間わたって力仕事をするというわけでもない。

こうした事情だけではなく、さらに重要な要素があるようだ。石井さんは笑いながらこんなことを言っていた。「花というのは、博打草なんです」。

南牧村の花卉農家は、川崎北部市場など6つの市場に50品種もの花を出荷している。どの花をどの市場にどれくらい出荷するかは、各自の判断である。コメのように農協に出荷して、それでお仕舞いというものではない。

それぞれの市場によって仕入れる花屋の特質やエリアは異なり、二―ズの高い花の種類も均一ではない。同じ花を出荷しても、市場によって値は大きく変わる。いつどこに何の花をどれだけ出荷するかで、実入りが大きく上下するのである。それらを全て自分で判断し、選択しなければならない。まさに自己責任である。稼ぎは自分の創意工夫や腕次第となっているのである。

南牧花卉生産組合の石井清・前組合長は、「村の活性化ということで自分たちの持ち出しでイベントをやっても、負担になってしまって長続きしません。でも、自分がつくったものが東京などで売れてカネになると、目つきが変わります」と語る。

やり甲斐があってしかも外貨をしっかり稼げることが、花卉栽培に取り組む高齢者の元気の源となっているようだ。一人ひとりの住民が活性化して初めて、村や町、地域の活性化といえるのではないだろうか。

・・・・・引用終わり・・・・
お上の言うとおり、JAの指導のとおりに農業をしていたのでは、「売れた」としてもこれほどの活力にはつながらない。

“博打”という表現が的を射たものかは疑問で、むしろ人々の意識と市場の動きを自らの頭と体を使って“読み、応える”という方が適切かもしれない。つまり“花が売れる”ということは自分自身が人々の意識と市場の動きに同化できた結果であり、だからこそ充足につながっているのだと考えます。

特に農業などでは高齢者にフィットする仕事がありそうですね。

 

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